秋、木々が紅葉をはじめると
だれでもこの詩を思い出すでしょう。
秋の日の
ヰ゛オロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。
鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。
げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。
ヴェルレーヌ作・上田敏訳の『落葉』です。
だれでも詩人になれそうです。
さあ、声に出して、味わって!
*
俳句に「末枯(うらがれ)」という季語があります。
意味は土肥あき子さんの鑑賞文にある通り。
使い方が難しそうです。
末枯や子供心に日が暮れて 岸本尚毅
末枯(うらがれ)とは、枝先、葉先から枯れはじめ、近寄る枯野を予感させる晩秋の景色である。盛りを過ぎた草木のあわれを訴える季題ではあるが、そこには日差しの明るみも潜んでいる。掲句を、子供心にも日暮れどきには感傷じみた思いになる、と読んだが、子供が意識する日暮れには「さみしさ」よりも、はっとする「焦り」の方が頻繁だったように思う。遊びに夢中で門限を過ぎていたとき、宿題をすっかり忘れていたとき、子供時代は他愛ないことで年中うろたえていた。子供にとっての一大事は、大人になった今思えば「そんなことで」と首をかしげるようなことばかりだが、そのたびにたしかに叱られてもいたのだから、大人も「そんなことで」叱ってばかりいたのである。そう思うと、掲句は単に日没への郷愁というより、「あーあ、どうしよう」という途方に暮れた感情が入り乱れているように思えてきた。末枯によって光と影が交錯し、全体に哀愁を含ませている。子供心の複雑さは、カッコわるいと思っていること(カッコいいと思っていることも)が大人と大いに違っている点にある。〈望なりし月すぐ欠けて秋深し〉〈ぽつかりと日当るところ水澄める〉『感謝』(2009)所収。(土肥あき子)
*
鑑賞文を読んで、「そうだ そうだった」と思われたかたも多いでしょう。
やらなければいけないことを忘れて遊び惚けていて、
あっ、しまったと思った時の焦燥感。
私はへまばかりやらかしていた子どもだったので、
こういう鑑賞文を読むとちょっと切なくなります。
じゃ、今は解放されたかといえば、年取ったら取ったで、
違う「焦り」があるんです。
そう、もうあとがないという本物の「焦り」(笑)
これ、どうしましょうか…。
お付き合いいただきありがとうございました。