リブログさせていただいた日下さんの今回の記事は

「一枚の絵」と題されたエッセイの終回です。

初回、2回目と、通してどうかお読みください。

少し言い訳をしなければいけません。

このエッセイですが、我田引水的に(勝手に)”八月は悼む月”に組み込んでしまっていますが、わたし的には「つながっている」と思えるのです。

 

先回『はだしのゲン』記事をリブログ紹介して、

次回は『火垂るの墓』の紹介をしようと思っていました。

『火垂るの墓』については主人公の清太に対して「それは自己責任」という見方が現在は一定あるんだとか。そのことに興味をひかれまして…。

 

で、「自己責任ねぇ…」って思っているときに「一枚の絵」の初回に出会い、

なんだかね、そこで動けなくなってしまったんです。

これはなんなんだ?と理由を考えました。

 

『はだしのゲン』、『火垂るの墓』と、エッセイ『一枚の絵』、

この三者をつなげているのはもちろん「子ども」です。

でもね、それは「大人」と対置する「子ども」ではない。

弱い存在ではあるけれど、単純に弱者と見做される「子ども」でもない。

ときには大人を抱く存在であるってことでしょう。

 

戦争末期、”一億玉砕”、”一億(総)特攻”というスローガンが掲げられました。

そんなスローガンのもとで子どもが生きていける道はありません。

事実あの戦争でたくさんの子どもが死にました。

 

ああ、そうだと思いました。

あのとき日本は魂レベルでの”一億玉砕”をやってのけたのだと思いました。

子どもという摩訶不思議な愛すべき存在を死に追いやった時点で

日本人は一億自死したのだと思います。

 

日下先生、ありがとうございました。

 

・・・・・・・・*

お付き合いいただき

ありがとうございましたコーヒー