映画『リトル・ガール』の概要は以下のサイトでご覧になれます。👇

映画『リトル・ガール』オフィシャルサイト (senlisfilms.jp)

以下は上記のサイト内に書かれていることですが、

改めてここにコピーしますね。 

■フランス北部、エーヌ県に住む少女・サシャ。出生時、彼女に割り当てられた性別は“男性”だったが、2歳を過ぎた頃から自分は女の子であると訴えてきた。しかし、学校へスカートを穿いて通うことは認められず、バレエ教室では男の子の衣装を着せられる。男子からは「女っぽい」と言われ、女子からは「男のくせに」と疎外され、社会はサシャを他の子どもと同じように扱わない……。

トランスジェンダーのアイデンティティは、肉体が成長する思春期ではなく幼少期で自覚されることについて取材を始めた監督は、サシャの母親カリーヌに出会った。長年、彼女は自分たちを救ってくれる人を探し続けて疲弊していたが、ある小児精神科医との出会いによって、それまでの不安や罪悪感から解き放たれる。そして、他の同じ年代の子どもと同様にサシャが送るべき幸せな子供時代を過ごせるよう、彼女の個性を受け入れさせるために学校や周囲へ働きかける。まだ幼く自分の身を守る術を持たないサシャに対するカリーヌと家族の献身、言葉少なに訴えるサシャ本人の真っ直ぐな瞳と強い意志が観る者の心を震わせる。


※ 作中では「身体は男性」という表現が出てきますが、身体こそ「自然」で、本質的とする考えからトランスジェンダーの人々への「身体的男性/女性」や「生物学的性別」などの表現が、差別や偏見を助長する文脈でも使われることがあるため、ご注意いただければ幸いです。

 

 

肉体と自認する性が、たまたま一致している多くの人は

この問題で苦しむことはありません。

自分の性を男性か女性かにふりわけられたくない、

なぜならそれは生きていく上で苦を伴う切実な問題であるからと、

たまたまそのように思わない多くの人は、

山崎ナオコーラさん(先日記事にした)のように、悩むことはありません。

どうしてかというと、これは「生まれつき」のことだからです。

生まれた瞬間に生涯苦しむことになるかどうか決まってしまっているのです。

 

LGBTQが社会的な関心事になり、欧米から声があがるようになったからと思うのですが、日本人の私もこのことで当事者の周りの人の正直な反応を知ることになりました。この十数年の間に3件もですよ。

この「周りの人」とは、具体的にいうと、当事者のサークル仲間であったり、当事者と仕事上の付き合いがあったり、当事者の母親の友人であったりという、まあ第三者なのですが、驚くべきは、すべてにおいて、これら周りの人は手のひらを返したように当事者に拒否的な反応をしました。それはもう…、びっくりですよ。

第三者たちはそれぞれ社会的にもそれなりの人で、あなたの立場でそれはないでしょうと私は思いました。その「手のひら返し」は、それから私の他者への見方を変えたほどで、私も傷つきました。だからこの問題は「特別」なのだと私は思っています。デリケートなのです。

 

この3件のなかの一件について、当事者は外国人で当時17歳の男の子でした。日本人の母親とドイツ人の父親の間に生まれ、スマートな美少年でした。ある日息子からカミングアウトされた母親は驚いて、夕方仕事から帰ってきた父親に告げたそうです。話を聞いた父親は「そうか」と言ったきりそのまま自室にこもり、あくる朝目を真っ赤に腫らして「あの子はこれから大変な人生を送ることになる」と妻に言ったそうです。

かれらはその日から当事者とその家族になったのです。

 

 

この『リトル・ガール』は紹介サイトにあるように、「幼少期で自覚される」ことの、当事者にとって痛苦をそのまま描いています。

観ていて辛くなります。

サシャと母親をサポートする小児精神科医は、「トランスジェンダーに対して理解がない人や悪口を言う人は一定数います。そういう人には打つ手がありませんから」と言います。

 

「打つ手がない」という冷酷な現実!

「手のひら返し」を経験した私も、そうかもしれないと思います。

でも変えていかなきゃいけませんよね。

私、3件のうちの1件については、手のひら返しの人に「あなたは差別的だ」と言ったんですよ。彼女すごく怒りました。批判されたことがなかったんでしょうね、きっと。

 

あ、誤解のないように言いますが、これを読んでくださっているあなたに「私のようにやれ」って言っているわけじゃないんですよ(笑)

 

 

映画『リトル・ガール』本編特別映像① それぞれの闘い

 

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お付き合いいただき

ありがとうございましたコーヒー