三野の戦記

「わが青春のビルマ」【31

 

 最後の段「望郷」になりました。

三回に分けてお届けします。

 

 

七、キャンプの中の経済社会

*望郷

 煙草という通貨が確立されると、収容所内の生活は俄に活発になった。

 最初にできたのは、一杯飲み屋であった。テントとテントの間に、打ち込んだ杭の上に板を渡したテーブルをこしらえ、密かに調達してきた焼酎のような酒を、缶詰の空缶でつくったコップに入れて出すのである。水浴帰りの兵隊が、造り付けの雪洞の明りの下で一杯やっている姿を想像して頂きたい。

 勿論、辛党があれば甘党もなくてはならない。ぜんざい屋ができた。小豆を手に入れることはなんでもないが、これを煮るには時間がかかる。当番になった者が、病気と称して作業を休み、これが小豆を煮てぜんざいを作る訳である。店というか食堂というべきか、それは一杯飲み屋と同じようなもので、空缶のお椀に竹の箸で甘党はぜんざいを喰う。

 博打を打っている、という話を聞いた。賭けるものは、勿論煙草である。親分というのかどうか知らないが、要するに大物同志の勝負になると、石油缶入りの煙草が幾缶も賭けられる、と聞かされた。

 新聞や雑誌など読む物がない生活も味気ない。そこで、隊の中で同人雑誌を作ろうという話が持ち上がり、手書きの同人雑誌「白菊」が誕生した。手元に第6輯が残っている。俳句、短歌、誌、翻訳、随想、創作など、さまざまな内容だが、福田朝生氏(故人)の「北シャン州に建つ独身者アパート」の設計は異彩を放っている。二九人の同人が、本名よりもペンネームや雅号を使って参加しているが、一人一人の姿が目に浮かんでくる。昭和二一年十二月十五日発行と記してあり、恐らくこれが最終号であろう。「禁無断転載」と渡辺康君は奥付に記している。

 収容所内での慰安のためには、演芸会や音楽会が開かれた。音楽会といっても難しいクラシック音楽などをやる訳ではなく、せいぜいギター・コンサートくらいのものである。お芝居もやりたいし、こういう催しのための舞台を造りたいというわれわれの希望は、あっさり収容所長に認められ、立派な舞台がみんなの作業で建設された。観客席は野天である。みんな風呂場の腰掛ほどの小さな椅子をこしらえ、催しのある夜は夕食と水浴を済ますと、その椅子を持っていそいそと野天の観客席に腰を据えるのである。

 私達の隊もお芝居をやりたいという希望が強くなり、隣の烈工兵隊と合同で白菊劇団というのを組織した。うまいことに、烈工兵には浅草で芝居の脚本を書いていたという人― 確か大江さんといったと思うが― がいて、脚本も演出もやってくれることになった。役者も両方の隊の希望者から選ばれた。

(この段続きます)

 

 

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コアラありがとうございました。