三野定の戦記
「わが青春のビルマ」【7】
二、フーコン谷地
*田中師団長の印象
師団は南下して、八月初めにはカーサ付近に集結した。私は、この転進の途中で、やっと陸軍少尉に任官したことを知らされた。
師団長は、カーサ西方の森林内に開設した司令部で部隊長会議を開いたので、深山工兵聯隊長も出席した。夕方になり、慰労の会食が催された。私は、副官から聯隊長殿を迎えに行くよう命ぜられた。
竹の柱に茅の屋根といった風情の会議場について、入口に立つ兵隊に案内を乞うと間もなく聯隊長が出てきたが、「閣下のお杯を貰ってやるから、ついてこい。」というので、私は後に続いて場内に入り、師団長閣下の前に立つことになった。私の敬礼がすむと、聯隊長は師団長に対して言った。
「閣下、これが閣下を煩わせまして帰して頂きました三野少尉であります。誠にありがとうございました。」
私は、この言葉の意味がその時は分からなかったが、後で副官から聞いたところでは、南方総軍では私を幹部候補生隊の教官としてジャワに残したいという意向だったが、深山聯隊長はどうしても私が要るとして、承諾しなかった。二度は聯隊長名で不承知の電報を返したが、三度目の要請電報に対してはさすがに聯隊長名では断りきれないので、師団長にお願いをして断って貰った、ということであった。私にとっては、誠に光栄なことではあるが、損をした感じがしないでもない。しかし、これが運というもの、人生は終わってみなければ分かるものではない。
しかし、とにかくこの時の田中新一師団長の次の言葉は忘れられない。
「おお、よき若者じゃのう。工兵作業は複雑多岐じゃろう?」私達の世代の者にとっても、これは大変古風な言葉で、まるで時代劇の映画でみる殿様が若侍に杯をとらせるシーンのように感じられた。
私は、少々固くなっていて、「はい。」と答えたことしか、覚えていない。閣下の杯を三杯もいただいてから、退出したのであった。
私はジャワの教育隊に行く前のまだ幹部候補生時代に、マンダレー近くのイラワジ河に架かるアヴァの道路・鉄道併用橋が二スパン落ちていたが、聯隊長の特命でその復旧計画を現場測量から設計、施工計画までやったことがあった。深山聯隊長はこのことを高く評価されていたのだと思う。
▼アヴァの道路・鉄道併用橋
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『続 海の彼方の道つくり』の奥付掲載の
三野定氏の略歴を紹介いたします。
【略歴】
大正7年6月 福岡市に生まる
昭和16年3月 九州帝国大学工学部土木工学科卒業
昭和16年4月 内務省大阪土木出張所雇
昭和17年10月~昭和22年3月 兵役に服し、ビルマ方面に従軍
昭和29年 8月~昭和30年7月 オハイオ州立大学に学ぶ
昭和31年11月~昭和35年2月 在比日本大使館一等書記官
昭和36年11月~建設省道路局高速道路課長、同 企画課長、
日本道路公団高速道路第三部長、
建設省近畿地方建設局長を歴任
昭和45年5月 日本道路公団理事
昭和51年6月~住友建設㈱取締役副社長、
取締役副会長を経て、
平成 2年10 月 取締役会長
1980年4月 IRFワシントン、理事
1991年5月 1991年度IRFマン・オブ・ザ・イヤー
1995年4月 IRFワシントン、副理事長
※国際道路連盟(IRF:International Road Federation)
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2001年11月29日 肺がんのため死去、83歳。
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お付き合いいただき
ありがとうございました。