の雨

 

春の雨が降っています。

 

『増殖する俳句歳時記』から

二句拾ってみました。

 

 

春の雨郵便ポストから巴里へ   浅井愼平

                           

作者は、ご存知のカメラマン。雨降りの日に投函するとき、

傘をポストにさしかけるようにして出しても、

ちょっと手紙が濡れてしまうことがある。

私などは「あっ、いけねえ」としか思わないが、

なるほど、こういうふうに想像力を働かせれば、

濡れた手紙もまた良きかな。

この国のやわらかい「春の雨」が、

手紙といっしょに遠く「巴里(パリ)」にまで届くのである。

彼の地での受取人が粋な人だったら、

少しにじんだ宛名書きを見ながら、

きっと日本の春雨を想像することだろう。

そして、投函している作者の様子やポストの形も……。

手紙の文面には書かれていない、もう一通の手紙だ。

愼平さんの写真さながらに、知的な暖かさを感じさせられる。

本来のウイットとは、こういうものだろう。

 

手紙で思い出した、昔のイギリスでのちょっといい話。

遠く離れて暮らす貧しい姉弟がいた。

弟の身を気づかう姉は、毎日のように手紙を出した。

しかし、配達夫が弟に手紙を届けると

、彼は必ず配達夫に「いらないから」と戻すのだった。

受取拒絶だ。

当時の郵便料金は受取人払いだったので、

貧しい彼には負担が重すぎたのだろう。

ある日、たまりかねて配達夫が言った。

「たまには、読んであげたらどうでしょう」。

すると弟は、封筒を日にかざしながら微笑した。

「いや、いいんですよ。こうやって透かしてみて、

なかに何も入っていなかったら、

姉が元気でやっているというサインなのですから」。

イギリスは、郵便制度発祥の地である。

 『二十世紀最終汽笛』(2001・東京四季出版)所収。(清水哲男) 


 

 

組合ひし棺のをとこや春の雨    平出 隆

                           

告別式での句。「春の雨」が降っている。

「棺」に横たわっている「をとこ」とは、作者とも私とも親しかった

河出書房の同僚の飯田貴司君である。

昨年の春(三月二日)に、六十一歳で亡くなった。

棺を前にして参列者の思うことは、むろんさまざまだろう。

ある人は、故人との交流の諸場面を走馬灯のように思い出すという。

だが、私の場合はどういうわけか走馬灯とはいかないで、長いつきあいにもかわらず、ただ一つの些細な場面に限られてしまうようだ。

詩の仲間内で言えば通夜にしか行けなかったが、辻征夫のときもそうだったし、

加藤温子のときもそうだった。

その他の人の通夜や葬儀でも、ほとんど同様だった。

どうしてこんな時にそんなことを思い出すのかと思うほどに、

他愛ないことを思い出してしまうのだ。

そのように、詩人・平出隆も酒の上でのいきがかりから

取っ組み合いになったことを思い出している。

つまり、生きていた死者との体感が生臭くよみがえってきたことだけを詠んでいる。

句を披歴した追悼文のなかで、作者は故人の体感を「重いなあ」と思ったと書いている。追悼句としては、まことに素直にも正直であり、しかるがゆえに出色だ。よい句だ。悲しい句だ。人と人との別れの悲しさは、故人の社会的な功績などとはたいてい無縁なのであって、例えばこの「重いなあ」に尽きるのだろうと、あらためてしんみりとしたことである。

『追悼・飯田貴司』(2002・「追悼・飯田貴司」の会・藤田三男代表編・私家版)所載。(清水哲男)

 

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どちらもしみじみいい句だと思わされます。

 

春の雨…、家の中にいても

思いきって外に出ても

どこかしら愁いと切り離せません。

 しっとりと思い出もまつわりついてくるようです。

 

一句詠んでみました。

 

屋根も吾(あ)拭いたまへよ春の雨

 

 

 

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お付き合いいただき

コアラありがとうございました