◆◇◆親父との人生◆◇◆
僕には、
『産んでくれて、ありがとう』
と直接言える人がいない。
なぜなら、
僕を産んでくれた母は、
僕を産んで2週間で亡くなってるから。。。
そんな僕にも、
物心ついた頃には、母親がいた。
世間体でいう後妻さんだ。
父母は、幼い僕に真実を隠した。
僕は、京都の呉服屋の長男坊だ。
僕の家は、僕の代で67代目になる。
生家は、仁和寺の前に600坪の敷地を誇った。
庭には池があり、鯉の餌やりを遊びにしていた。
家の中には、中庭があり、
子供心に風情を楽しんでいた。
雨の日には友達と部屋で野球をしていた。
典型的な金持ちのボンボンってやつだ。
そんな環境で僕は育てられた。
親父は特に厳しく僕を育てた。
母親は特に優しく僕を育てた。
親父の厳しさは、本当に凄まじかった。
幼稚園の時には、線香で「やいと」をされた。
そのやいとの跡は、今でも僕の右手の甲にある。
今でも親父の言葉を覚えている。
「ならぬ事をしたときは必ず痛い目に遭うものだ」
「この跡はずっと残るはずだ、
いつでもこの跡を見て正しいことをせよ!」
夕飯は、親父が帰宅するまで、
どんなに空腹でも、
絶対に食べさせてもらえなかった。
小学3年生からは、
完全に強制で、朝夕の新聞配達をやらされた。
朝刊の配達は楽しかったが、
夕刊はツラかった。
友達と遊んでいる途中に、
遊びをやめて抜け出さなきゃいけないからだ。
そして、
私立の高等学校へ行きたいと親父に嘆願した時にも、
「行きたいんやったら自分の力で行けや!」
「人様と同じ公立校なら支援したる。
だが自分の意志で行きたい学校があるなら自分の力で行け」
「勘違いするなよ!自分の力とは学力だけやのうて財力もや!」
「お前には小学3年から稼ぐ力を育ませてやってるんや!」
つまり、学費は払わないってことだ。
親父は、本当に厳しかった。
母親は、くじけそうな僕をいつも支え、励ましてくれた。
そして、20歳の誕生日。
親父:「我が家の家訓を言え!」
僕 :「代々初代」です。
親父:「そうや! ほなら、これにサインしろ!」
手渡されたのは財産放棄の書類だった。
本当に徹底している。
親父の僕への教育には、いつも「覚悟」があった。
僕も何の躊躇もなくサインした。
そしてその後、僕にとって忘れられないことが起きた。
親父が初めて僕に謝ったのだ。
後にも先にも親父が僕に謝ったのはこの時だけだ。
それは、僕を産んでくれた母のことを告げたとき。
和室の仏壇の前で、親父が僕に土下座した。
でも、
小学5年の頃に、僕は感づいていた。
だって、僕の周りにはお婆ちゃんが一人多いんだもん。
お婆ちゃんはいつもウチに来るとまっすぐ仏壇に手を合わせる。
仏壇のお世話も物心が付いた頃から、ずっと僕だけが担当。
位牌の裏には、女の人の名前と僕の誕生日の2週間後の日付がある。
だから、
親父が土下座した時、
「お父はん、僕知ってたよ。僕にはお母はんが二人もおるんや。
他の人より2倍も幸せなんや!言ってくれてありがとう」
と自然に言えた。
この時初めて、
いや改めて、
本当の家族になれた気がした。
その後も、親父は厳しかった。
大学の学費も東京学生生活の仕送りも、
共に何の支援もなかった。
もう自然で、当たり前の事と思えた。
今では父親にも母親にも感謝している。
二人目の母親と結婚したのは、
僕が1歳になった頃だと聞く。
絶対に僕のためだったはずだ。
このことを僕は、親父の優しさだと思っている。
そんな親父もついに余命宣告をされた。
大正生まれの厳しかった親父にも、
人生のラストシーンが近づいている。
なんだか複雑な思いで一杯だ。。。