ハリウッド映画や、ネトフリの大作を見た時と、日本の映画やドラマを見た時の大きな違いは、日本の作品の「安物感」です。

その原因は、もちろん製作費が桁違いであることも大きく、そもそも使っている機材とカメラマンの人数、編集に携わる人数も異なることにより、映像のクオリティ自体に差が出ます。しかし、何よりも大きいのは、俳優の演技です。

欧米の役者は小さいころからメソッドなどの様々な演技法に触れ、中高も大学もさらには大学院でも演劇論から文学などを極め続けます。彼らの肉体と精神は、言ってみれば、バレエダンサーのように「演じる人」として鍛え上げられています。

今、スカーレット・ヨハンソンなどの最も成功している俳優たちの間で一般的な演技法が「メソッド」という演技法です。これは、古くはマーロン・ブランド、ジェームス・ディーン、マリリン・モンロー等が学び、成功したことで世界的に認知されるようになったもの。このメソッドアクティングでは、実は「演じない」のです。

その「役」のキャラクターが感じる感情と似たような経験を自分の中で掘り起こし、その感情をそのままぶつけるので、メソッドで訓練された俳優は、実は演じているのではなく、悲しみであればその強い悲しみを、実際に撮影時に「感じている」。だからこそ、とてつもなく「リアル」で「本物感」がある。

一方、日本の俳優の多くは「演技」という言葉が表す通り、表面上「ふりをしている」だけ。
この違いは画面に出ると一目瞭然です。

映画やテレビドラマの世界でいう「本物感」はつまり、「ふりをしている」「作り物である」ことをしていない、本当に自分の心の中で感じているかどうか、それにより本当に「自分の感情になっているかどうか」によって決定されます。

これは、テレビのニュース記者であっても、ビジネス会議におけるプレゼンであっても、実は同じなのです。

日本と欧米の「記者」における「本物感」の大きな差は、「原稿を読んでいるかどうか」です。
日本人は記者が原稿を現場から棒読みするのに慣れてしまっていますが、棒読みのテレビ記者は、欧米のテレビ局ではいないというか、あり得ません。「棒読み」という現象自体が、人前で話す訓練を幼少時から繰り返す欧米では存在しないのではないでしょうか。家電の説明書等を声に出して読む時くらいの様な気がします。

その場で考えながら、原稿などを読まずに自分の言葉で話す、ということは、「人前で話す」場合とても重要です。

もちろん、欧米人でも原稿を読む場面もありますが、やはり自分の言葉で話せている人の方が偉いし、説得力があると評価されます。

このため、伝えることのプロであるテレビ報道のや記者は、伝えることのポイントだけ頭にいれておき、本番前に何度か練習して、本番では原稿を見ずに話します。

この伝え方をadlibing と言います。いわゆる、カタカナ語で言う「アドリブ」です。
欧米のニュースの伝え方では;
読んで話すことは prompting
自分の言葉で話すことを adlib
と言います。

プランプティング、とはつまり、プロンプターなどを「読んで」発話すること。

経験のあるブロードキャストジャーナリストこそ、原稿を読まずに自分の経験と取材から得た情報や頭の中に入っている情報を、話しながら組み立てて「アドリブ」で生中継することができます。

中でも強者ぞろいのホワイトハウス担当の記者は当然、自分の言葉で、つまりAdlibで質問をするのが当たり前の世界。

だからこそ、「本物」感が出るのです、それは本当に「本物」だからです。

毎日積み重ねている政策の学びと情報収集、取材ネットワークの構築活動、そしてプライベートにおける経験の積み重ね全てが、その人の言葉と聞く力に「説得力」や「存在感」を与えます。

それは、言ってみればその人自身が普段どれだけ真摯に現実世界で人生に向き合っているか、そしてそこから生まれる「人間力」。

彼らは、一般市民からアメリカの大統領まで、いろいろな人に質問をし、情報や意見を得ることが仕事です。つまり、質問のプロです。

そんな質問のプロたちのの質問の仕方に共通するのは、下記の点;
  • メモを読まず、自分の言葉で聞いている
  • その時その瞬間、自分より前に質問した人の質問、出た答えのバランスを考え、自分の質問を調整している
  • 自然体である
  • 声のトーンが深く、落ち着いている

これらの点は、普段のビジネス会議などの場面でも、参考になるでしょう。詳しくは前回の記事にも書いているのでご参照ください;
ただし、ホワイトハウスの担当記者の様に、特に質問力が元々世界トップレベルの人が集まる集団の中にあってさえ、飛び抜けて質問力が高く、他とは一線を画す人がいることがあります。
他の記者が何度も聞いている質問でも、メディア対応のプロ中のプロであるホワイトハウスの報道官が、つい反応して、動揺したり、何か情報を漏らしてしまう様な、特別な記者が時々います。

その人と、他の人の違いは何でしょうか。

もちろん、前回記事にも書いた、その場にいる人の非言語コミュニケーションを読み取る観察力や、情報処理能力が高い、といった「スペック」の優劣もあるでしょう。しかし、こと「質問力」に関して言えば、ここぞ、というところでなぜか満塁ホームランを叩き出せる人と、そうでない人には、ただのテクニックのレベルでは説明のつかない歴然とした差が生じるのです。

ただテクニック的にうまい、というだけでは上っ面の印象を与えてしまいます。セリフの言い回しが上手いだけの表層的な「ふりをする」日本の俳優に多い感じ。
そういう「小手先のうまさ」を揶揄する表現が、欧米の言語ではとても多く、フランス語には、
「自分の声を聞くのが好きな人」
という慣用表現がありますが、意味もその通りで、話すのがうますぎて自分に酔い、上滑りしちゃうフェイクな人、の意味です。

そのような偽物にならずに、コミュニケーションをするためにはどうしたらいいのでしょうか?
それこそが、カーネギーの人を動かす原則の最後の原則である
Go above and beyond
常にやり過ぎるくらいやりきる、
です。
これは次回につづきます。