たった一度の「運動」~トモノス北廃止反対署名闘争~ | 難しい宿題はみんな明日♪

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大阪で活動する「劇団うてな」の秘密警備員(笑)の日常。

 一応、当時の議事録を元にしておりますが、何分写真のとおり殴り書きで、読めなくなった箇所があったり、記憶違いもあるかも知れませんがご了承下さい。

議事録


 平成18年1月12日、当時の大阪市長(現職含めて3代前)より「大阪市行財政改革マニフェスト案(以下「マニフェスト」と略)」が発表され、その中に「勤労青少年ホーム(通称トモノス、現子供・子育てプラザ)」の全館(26館)廃止が盛り込まれていた。
 この事が私の「運動」の発端となった。
 翌13日、自宅の新聞(地元紙)でその事を知り、取り急ぎトモノス北に駆けつけ、管理者から事情を聞こうとしたが、現場も新聞で初めて知ったとのことでお互いに「これからどう動こう?」と困り合った。
 取り急ぎ緊急グループ協議会(以下「G協」)を開催し、今後の動きを決めることにした。全グループ参加は無理でも可能な限り多数の意見を確認したいのと、大阪市当局の動きを見るため、結局「緊急協議会」ではなく「2月定例協議会」として開催。
 集まってみたものの、私や施設管理者も含めて参加者全員が「寝耳に水」状態で、とにかく何が何やら…でもこのまま黙って受け入れる気もない「大阪市役所前でデモ行進」も一瞬頭をよぎったが、「そんなことしても意味がないし、元々勝算なんてないし(後述)、第一(道路使用許可申請など)面倒くさい」ので、確実に大阪市当局に意見が伝わる手段として「署名活動」を選択した。
 とはいえ、3月29日の定例会までの短期決戦なので文面等些末なことでモメていられない。
 たまたま、別のトモノスがすでに同様の活動を行っていたので、良く言えば「見習い」、悪く言えば「パクり」つつ、トモノス北独自の運動を展開する方向は決まった。
 修正文面についてもほぼ無理矢理賛成させて、次のG協までに浄書して配付できるようにした。
 そして3月のG協、施設管理者からこれまでの経緯についての説明があったが、結局「廃止」以外何も決まっていないようなものだった。
 逆に言えば、突っ込み方さえ間違えなければひっくり返すことも可能かと思われた。
とにかく、本会議開催までの短期決戦での「斗争」を起こすことにした。結果、500人超(200人だったかも?)の署名が集まり、大阪市議会に「陳情」という形で提出した(大阪市議会平成18年陳情第41号)
 当然ながら自身の本名も住所も陳情書に書いてあるので、市議会、議員からの事情聴取や参考人招致に対する心の準備もできていた。
 しかしながら、最終的には5月26日の平成18年5・6月定例会常任委員会(民生保健)で却下された。
 これまでが記憶とメモをたどった一連の経緯だが、この中で気が付かれた方もいるかも知れないが、この「斗争」の中で一切政治家や政治活動家の手は借りていない。(厳密に言えば、陳情書提出の際に居合わせた市議に「ここはこう書いたほうがいいよ」とアドバイスはいただいたが)
 なぜか?理由は簡単。
 「我々はトモノス北をどのような形であれ残すために活動しているだけで、この活動を拡大する意図は全くない」からである。
 もしそのような意見が出たら、問答無用でブッた切っていただろう。
 正直、「猜疑心」と「狂気」に囚われていたといってもいいかも知れない。
 この辺りは小林よしのり氏の影響は確実に受けていることは確実である。(薬害エイズ問題を参照)
 後、「絶対負ける」と思った理由は、「勤労青少年ホーム」から「保育所」にするという話が出ていた。
 当時の大阪市北区は待機児童数が大阪市内で一番多く、トモノス北のある周辺は保育所数が少ないため、比較的新しく、適度に広い(体育館があった)トモノス北は保育所に転用するなら魅力的だったろう。
 「文化・教養」と「日々の生活」のどっちが大事か?言うまでもないだろう。
 その「カード」を切られれば、我々の負けは確実だった。
 とはいえ、有料化や保育所との共存という形はとれなかったのだろうか?
 話は変わるが、仮に以前と同じ形でトモノスが残ったとしても、私はG協の会長を辞任していただろう。
 上から目線な言い方になるが彼等も「非大阪市民を会長に据える危険性」は十分学んだだろうから。
 私も大阪市民であったならばもっと違った動きができたかも知れないが、今更言っても…ね。