歌の詩を間違って覚えたまま歌うことや、詩の意味もわからいまま歌って後に気付くことはよくある。
「お富さん」という歌謡曲があるが、その歌はまさにその代表格。
歌詩を今のようにすぐ見ることが出来なかった時代。
全く別の意味に理解した。
 
粋な黒塀 見越しの松に
仇な姿の洗い髪
死んだはずだよ お富さん
生きていたとは お釈迦様でも
知らぬ仏の お富さん
エーサオー 玄冶店
 
何のことやらである。
はじめてこの歌を耳にしたのは子供の頃であったろうか、何のことかわからないまま、そのテンポの良い曲調と不思議な歌詩で自然と口ずさんでしまう。
 
その後この歌は歌舞伎を基にした歌であることは聞いたものの、それでも詳しいことはわからないまま。
 
そこで今回この歌のことを改めて調べてみた。
 
「お富さん」は歌舞伎の演目「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」を歌ったものである。原作は瀬川如皐で1853年(嘉永8年)に初演された。
実際にあった出来事を脚色し歌舞伎にしたものである。
イメージ 1
世話物といわれるもので、現在では9幕あるうちの2幕「木更津海岸見染の場」「源氏店の場」がよく上演される。
お富さんとはこの歌舞伎に出てくる女形。
 
そのあらすじはこうである。
与三郎は江戸の大店の養子で跡継ぎ。しかしその気は無く放蕩生活をしていた。
お富は木更津の地元の親分の妾。二人は或る日木更津の海岸で偶然出会う。与三郎はお富の美貌に一目ぼれ、お富も与三郎に心惹かれる。
二人はその後深い仲となるが、そのことが親分にばれてしまう。
与三郎は捕えられ体中を刀で切り刻まれる。お富も子分に追われ海に身を投げる。
お富は商人に命を救われる。そしてその商人の妾となっていた。
一方与三郎は体に受けた傷で無頼漢となっていた。
三年後。
与三郎は同じ無頼漢の安という男とある家に金を強請に入る。
そこはお富のいる源氏店の妾宅であった。
お富が安にお金一分を差し出すが、与三郎はその女がお富であると気づく。
二人は三年ぶりに再会する。
お互いに死んだと思っていた。
与三郎はお富の今の境遇と自分の今の境遇を比べ、お富にさんざん悪態をつく。
この時の与三郎の台詞は歌舞伎の名台詞でもあり、この歌舞伎の一番の見せ場でもある。
お富を囲っていた商人は実はお富の実の兄であったことが判明する。
 
この物語は映画化もされている。1960年に公開された。
「切られ与三郎」という映画でだいぶ歌舞伎よりは脚色されている。
イメージ 2
 
私は歌舞伎を実際に観たことはないが、今回DVDでこの「与話情浮名横櫛」を観た。
イメージ 3
1963年(昭和38年)に歌舞伎座で上演されたものである。
与三郎役は十一世市川團十郎。今の市川海老蔵の祖父にあたる。
お富役は六世中村歌右衛門。
 
さてあの有名な台詞とは。
市川團十郎の台詞を書き記してみる。
源氏店の妾宅でお富に三年ぶりに再会した場面である。
 
ご新造さんへ、おかみさんへ、お富さんへ、イヤサお富、久しぶりだなあ。
 
(お富)そういうおまえは・・・
 
与三郎だ。お主ゃおれを見忘れたかあァ。
しがねえ恋の情が仇、命の綱の切れたのを、どう取りとめてか木更津から、めぐる月日も三年(みとせ)越し、江戸の親にやァ勘当受け、よんどころなく鎌倉の、谷七郷(やつしちごう)は食い詰めても、面(つら)に受けた看板の、疵がもっけの幸いに、切られ与三(よそう)と異名を取り、押し借り強請(ゆすり)は習うより、慣れた時代の源氏店、その白化(しらばけ)か黒塀に格子造りの囲い者、死んだと思ったお富たあァ、お釈迦様でも気が付くめぇ。
よくまあァお主やァ達者でいたなあァ。
おお安、これじやァ一分じやァ帰(けえ)られめえ。
 
この台詞を聴いても「お富さん」に出てくる歌詩と重なることがわかる。
 
この台詞がある源氏店の場。
歌舞伎の中では鎌倉になっているが、実際の場所は「玄冶店」。
そこはかつて日本橋にあった地名である。
今の日本橋人形町三丁目あたり。
そこには「玄冶店」の記念碑がたっている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そのすぐ近くには料亭「玄冶店 濱田家」がある。
 
 
 
やはり実際の歌舞伎を見てみたい。
歌舞伎座で上演された「与話情浮名横櫛」を見ることができた。
与三郎は片岡仁左衛門。お富は板東玉三郎が演じた。両名とも人間国宝。
 
 
 
与三郎とお富が初めて出会うのが木更津の浜。
木更津も歌舞伎「与話情浮名横櫛」、そして「お富さん」の舞台でもある。
木更津の海岸近くには見染の松がある。
 
 
ここでの出会いがやがて二人の運命を変えてしまうことに。
 
また木更津の駅前には与三郎通りという通りがある。
 
与三郎と蝙蝠安の墓もある。
 
 
玄冶店に戻ろう。
玄冶店は歌舞伎「与話情浮名横櫛」でその名が知れ、「お富さん」でさらに有名になった。
そこは「与話情浮名横櫛」と「お富さん」の舞台でもある。
 
さて「お富さん」についてであるが、この歌は1954年(昭和29年)に世に出た。歌ったのは春日八郎。作詩山崎正。作曲渡久地正信。
作詩の山崎正はこの曲が唯一のヒット曲となった。しかしその詩が歌舞伎からきているとは多くの人は知らぬ仏の「お富さん」である。
渡久地正信は沖縄の出身でその曲の特徴が沖縄のメロディーにあるといわれる。「島のブルース」などの代表曲がある。この「お富さん」も沖縄の民謡をヒントにしたといわれ、お座敷ソング的な明るさと、リズミカルな曲調でその特徴ある詩とともに子供から大人まで多くの人に歌われた。
春日八郎自身当時歌舞伎にはあまり詳しくなく、この歌の詩を何度読んでも意味が分からなかったという。
しかしこの歌は125万枚を売り上げる大ヒットとなった。
春日八郎には「赤いランプの終列車」「別れの一本杉」「長崎の女」など哀愁あふれる代表曲があるが、「お富さん」とは明らかに曲調が異なる。本人もどちらかといえば哀愁あふれ、歌の上手さを発揮できる曲の方が春日八郎の本領と思っていたのかもしれない。しかし、歌って多くの人に受けるのは「お富さん」であった。
 
さて、「お富さん」を改めて聴いてみる。
基になった歌舞伎や映画を観て、いろいろ調べて、ようやくこの歳になって歌の意味が分かったのであった。
 
 
粋な黒塀 見越しの松に
仇な姿の 洗い髪
死んだはずだよ お富さん
生きていたとは お釈迦様でも
知らぬ仏の お富さん
エーサオー 玄冶店
 
過ぎた昔を 恨むじゃないが
風も沁みるよ 傷の跡
久しぶりだな お富さん
今じゃ呼び名も 切られの与三よ
これで一分じゃ お富さん
エーサオー すまされめえ
 
かけちゃいけない 他人の花に
情かけたが 身のさだめ
愚痴はよそうぜ お富さん
せめて今夜は さしつさされつ
飲んで明かそよ お富さん
エーサオー 茶わん酒
 
逢えばなつかし 語るも夢さ
誰が弾くやら 明烏
ついてくる気か お富さん
命みじかく 渡る浮世は
雨もつらいぜ お富さん
エーサオー 地獄雨