日本には過去の出来事を教訓として、語り継がなければならないものがある。
先の戦争についてもそうであるように、自然災害についても。
やがてやって来る9月1日の防災の日。
関東大震災が起こった日である。

関東大震災は1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に発生した、神奈川県相模湾沖を震源とする地震による災害で、190万人が被災し10万5千人余の死者・行方不明者を出した。
日本の災害史上最大の被害をもたらした。

関東大震災の詳細については作家吉村昭が「関東大震災」にその記録として著している。

昨日永井荷風の「断腸亭日乗」を買った。
これは永井荷風(1879~1959)が38歳から79歳の死の直前まで書きつづけた日記である。
岩波文庫からその一部をまとめ上下巻となり刊行されている。
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日記の手本とされるものであり、季節感を感じさせ、東京の風景が織り込まれ、個人の日記ではあるがきわめて文学的価値の高い作品となっている。

その日記の中に、1923年の関東大震災の様子が書かれている。
荷風は住まいを転々としたが、震災のあった当時は今の六本木一丁目あたりに住んでいた。
関東大震災が起こったその日の日記はこうつづられている。

 九月朔(ついたち)。こつ爽雨歇(や)みしが風なほ烈し。空折々掻き曇りて細雨烟の来るが如し。日まさに午ならむとする時天地忽鳴動す。予書架の下に坐し『嚶鳴館遺草』を読みゐたりしが、架上の書帙(しょちつ)頭上に落来るに驚き、立つて窗(まど)を開く。門外塵烟(じんえん)濛々殆咫尺(しせき)を弁せず。児女雞犬の声頻(しきり)なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるがためなり。予もまた徐(おもむろ)に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまま表の戸を排(おしひら)いて庭に出でたり。数分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。門に倚(よ)りておそるおそるわが家を顧るに、屋瓦少しく滑りしのみにて窗の扉も落ちず。やや安堵の思をなす。昼餉(ひるげ)をなさむとて表通なる山形ホテルに至るに、食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二、三の外客椅子に坐したり。食後家に帰りしが震動歇まざるを以て内に入ること能(あた)はず。庭上に坐して唯戦々兢々たるのみ。物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。ホテルにて夕餉(ゆうげ)をなし、愛宕山に登り市中の火を観望す。十時過江戸見阪を上り家に帰らむとするに、赤阪溜池の火は既に葵橋に及べり。河原崎長十郎一家来りて予の家に露宿す。葵橋の火は霊南阪を上り、大村伯爵家の鄰地にて熄(や)む。わが廬を去ること僅に一町ほどなり。

文語体で古い言葉も使われているが、日記なので大体のことは理解できる。
荷風の家は被害を免れたようであるが、震災時の様子や、まわりの情景が浮かんでくるようである。
それにしてもこれほどの震災の当日にホテルで食事をしているところなどは荷風らしい。

震災から一カ月余りたった日記には、大震災のその後の様子を記し、このように評している。

十月三日の日記である。
日比谷公園あたりを歩いていた時の様子。
「林間に仮小屋建ち連り、糞尿の臭気堪ふべからず。」
荒廃した東京の姿を見て、
「帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、いはゆる山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢(しゃしきょうまん)、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりといふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失ひ国帑(こくど)また空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即かくの如し。自業自得天罰覿面(てきめん)といふべきのみ。」

東日本大震災を天罰といった政治家がいた。今そんなことを言えば批判の対象になること必至であるが、永井荷風のこの指摘は文明批判でもあり、政治への警鐘とも受け取れる。
現代にも通じるものがあるように思える。