私には今でも脳裏に強烈に焼き付いているあるテレビ番組がある。
NHKスペシャルで放送された「戦後50年 その時日本は」のシリーズの一つ「列島改造 田中角栄の挑戦と挫折」である。
戦後50年の1995年に放送された。
番組の冒頭、田中角栄が壇上に立ち多くの聴衆を前にその紅潮し、汗を光らせた顔で語気を荒げる。
「新幹線が来たら、新潟県の工業出荷額は、新幹線の赤字の何十倍、何百倍に拡大される、そんなことがわからんで、日本の政治が語れるか。そうじゃないのか」 
この時田中はロッキー事件の被告の身である。
場面は変わり、雪深い新潟の景色。屋根に高く積もった雪を降ろす一人の住民の姿。
田中角栄は最初に選挙に出たときの演説で、三国山脈のどってっぱらにトンネルを何本も通し、日本海側の冷たい空気を太平洋側に抜けさせれば、こちらに暖かい空気が入ってきて雪国から解放されるといったようなことを聴衆に訴えている。
出来もしないことであるが、聴衆は次第にこの人は何かやってくれるのではないかと希望を持たせた。
新潟の人にとってそれほど雪は生活を脅かすものだったのである。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
そこは川端康成の小説のようなロマンチックな場所ではないのである。
鈴木牧之の「北越雪譜」では越後に暮らす人々の雪との闘いの歴史が描かれている。
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田中角栄の政治の原点、それは貧しい雪国新潟の人々の暮らしを何とか良くしたい、それがあのような演説に込められているのではないか。
そしてそれは「日本列島改造論」へとつながっていく。
田中角栄はその理想を実現するため、高等小学校卒業という経歴でありながら、自民党の要職、主要閣僚を経験し、そして自民党の熾烈な総裁選を勝ち抜きついに政治家の頂点である総理の座に就いたのである。
「庶民宰相」の誕生である。それまでの帝大を出て官僚から政治家に転出し、総理になる図式を変えた。
しかし田中の支えは数に頼るしかなかった。そして数は力、力は金といわれるように金に頼ったのも事実である。
 
田中角栄が総理大臣になった日はニュースで記憶に残っている。背広に下駄ばきで、自宅の池の鯉に餌をやる姿である。1972年、私は小学生だった。
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わたしの家には「日本列島改造論」の本があり、父に「日本列島改造」とはなんなのか尋ねた。
父は日本列島を船にたとえ、船の片側の太平洋側が重くなりすぎ傾いているのでそれを水平にしようとするものだといういう答えだったと思う。どこかで読んだか聞いたものであるにせよ、私にはこのたとえが今でも印象に残っており、端的に表していると思っている。
日本列島改造とは地域の格差をなくし、経済発展を遂げることであった。その基礎となるのが高速道路と新幹線を全国にはりめぐらせることであった。
日本の高度成長とともに権力の階段を駆け上った田中角栄。その頂点に立った時、高度成長にも陰りが見え始めていた。ドルショック、オイルショック、インフレ、土地投機、金権、金脈、女性スキャンダル・・・
権力の階段を駆け下りていった。その理想を実現できぬ間に、田中政権は終焉を迎えた。2年5ヶ月の在任期間であった。
NHKの番組の中で当時の大蔵官僚の言葉が印象に残っている。「田中さんは過疎に苦しむ住民に夢を与えた。そして彼らと同じ目線に立った。目線を低くし過ぎたために田中内閣は短命に終わったのではないか。時代にまみれ、時代の子になりすぎ、一歩引いて物事を見ることができなかった。」
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退陣を表明した日の田中角栄。
その日下駄ばきの姿で現れた田中は、自宅にいた番記者の前で「総理大臣というのは、俺にはきつかった・・」とつぶやいた。その場にいた記者たちは涙を止めることができなかったという。
 
私は学生時代から自民党には批判的であった、当然田中角栄も批判の対象であった。
それは今も変わらない。
しかし田中角栄という人物については、このNHKの番組を視てから印象が変わった。
この番組を書籍化したものがあり、古本で購入して読み、改めてその番組がよみがえってきた。
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私の生まれ育ったところは、日本の豪雪地帯の西限の地域でもある。昭和38年の豪雪以降人口は減り続け、過疎の町となった。
政治的立場は違えども、田中角栄の政治の原点、目線に共鳴したのも事実である。
そして今の政治の現状を見たとき、一国の総理になるのに、どれほどの努力と苦労を積み重ねてきたのか、成り行きでなった総理とは重みが違う。
「三角大福中」と言われた時代、自民党は熾烈な総裁争いを展開した。それが世間からの批判も浴びた。
「角福戦争」とも呼ばれたが、その福田赳夫は晩年田中の高度成長と自分の安定成長の戦いであったと回顧している。田中が突っ走るのにブレーキをかける役目をした。
それぞれがチェックをしバランスがとれていたともいえる。今の自民党にそれがあるであろうか。
 
私が15年前地方議員を辞め民間の会社に勤めたとき、ある経営者に出会う。その経営者が個性の強い方で、私には田中角栄に重なるものを感じさせたのであった。
以来田中角栄に関する本を多く読んだ。特にその人心掌握には魅かれるものがあった。
田中角栄ほど経歴から金脈、女性関係に至るまで赤裸々になっている政治家はいない。
それだけありのままの姿がわかる。
政治家田中角栄、人間田中角栄、どちらも興味を引いてやまない。
田中角栄が亡くなって今なお多くの田中角栄に関する本が出版され続けている。
 
私が掃いて捨てるほどある田中角栄に関する本の中で最も印象に残っている本は、「角栄伝説」という本である。著者は時事通信で田中角栄の番記者をしていた増山榮太郎氏である。だいぶ前に読んだのであるが、実はこの方の名前は以前から知っていた。中野区議会議員時代、私の名簿に載っていた。住まいも近かった。本人にお会いしたことはなかったが、夫人には何度かお会いしている。
さて本の内容であるが、田中角栄の足跡は他の本でも書かれていることであるが、興味を引くのはその田中角栄評である。
著者は自民党の功績を高度成長と平等社会の実現という。それは日本列島改造の理想ともつながる。
そして最も平等社会の実現に貢献したのが田中角栄だと。
しかし小泉改革によりその方向は全く逆に向かったと。そして格差社会へと突き進む。
この著書を読んで、改めて田中角栄の政治の原点、その目線を思い起こした。
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田中角栄は金権政治、その象徴がロッキード事件ととらえられるであろう。
田中角栄は道路と新幹線に命をささげたと言っても過言ではない。しかしロッキード事件は航空機に絡む事件である。田中角栄に関し航空機の話はほとんど出てこない。その田中角栄が航空機に絡んで罪に問われ、被告人となったのは皮肉なことに思える。
 
今年の新成人が生まれた1993年(平成5年)、田中角栄はこの世を去った。
晩年は哀れな姿であった。田中角栄を知っている新成人はどれほどいるであろうか。
そして田中角栄という政治家は今の若者にどのように映るのであろうか。
 
さて私は今日埼玉県の狭山ゴルフクラブにいた。
田中角栄のゴルフに関する記述がある。
元秘書が書いた著書に出てくる。
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田中がゴルフを始めたのが50前ごろ。総理になる前である。
まず理論から入り教本を読み頭に叩き込む、練習場に3か月みっちり通い、そして初めてのコースデビューがここ狭山ゴルフクラブであった。
ある年は1日3ラウンド、年間250ラウンド回ることもあったという。
やり始めたらはまり込み、やると決めたら雨の日でも強風の日でもやめない。
ゴルフは性格が現れる。
田中角栄のゴルフは、セカセカ、「迷わず、ためらわず」攻めのゴルフ。最後の詰めのパターは苦手であったと。
ルールとマナーには厳しかったようだ。
田中角栄のプレーしている姿が想像できるようであった。
 
私の田中角栄に関する興味は尽きることはなさそうだ。