忠臣蔵をモチーフにした架空の人物が俵星玄蕃で、俵星玄蕃を主人公にした長編歌謡浪曲がこの「元禄名槍譜 俵星玄蕃」である。
忠臣蔵いわゆる赤穂事件で歴史上はっきりわかっているのは、刃傷事件と討ち入りといわれる。
この事実をもとに虚実入り乱れた一大エンターテイメントが展開され、日本人の魂を震わせるのである。
 
時は元禄14年3月14日。ところは江戸城松の廊下。
播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩は吉良上野介義央に向け脇差を振り下ろした。
世にいう刃傷事件である。
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「上野!この間の恨み、覚えたるか!」
 
この事件で浅野は即日切腹を言い渡された。
この日から赤穂浪士の討ち入りに向けた物語が始まるのである。
 
時は流れ、元禄15年12月14日。
江戸は昨日までの雪で銀世界。夜空には月が冴えわたっていた。
俵星玄蕃は道場のある本所横網町でしみじみ酒を飲みながら夜を過ごしていた。
昼間玄蕃はそば屋に名前を問おうとするもついに名を聞くことは出来なかった。
真夜中になり、遠く陣太鼓の音が聞こえてきた。
玄蕃は立ち上がり耳を澄ませると、響くはまさしく山鹿流儀の陣太鼓。赤穂浪士の討ち入りである。
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大石内蔵助のたたく陣太鼓を合図に赤穂浪士は吉良邸に討ち入りを敢行した。
討ち入りの合図といえば陣太鼓がお決まりのようであるが実際には太鼓は使われていない。
 
玄蕃は赤穂浪士を助太刀するのはこの時ぞとばかり、身支度をし、九尺の手槍をとり、白雪を蹴立てて行く手は吉良邸のある本所松坂町!
吉良邸についてみると討ち入りの真っ最中。
玄蕃は総大将の大石内蔵助に近寄り、助太刀を申し出るも、志はありがたいがここはお引上げくだされと言われる。
その時、一人の浪士がサク、サク、サク・・・と雪を蹴立てて近寄り、
「先生!」と声をかけてきた、その姿を見た玄蕃はすかさず「おうッ、そば屋か~」
(曲の中での一番の見せ場、盛り上がる所である)
逢って別れが告げたいと思っていた玄蕃は劇的な再会を果たす。
まさしくそのそば屋こそ赤穂浪士の一人杉野十平次であった。
仇討の成功を祈りつつ、邪魔者は絶対通さんと、玄蕃は両国橋のたもとで仁王立ちするのであった。
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雪を踏みしめ、その手に持った槍には月に照らされた玄蕃の涙が光っていた。
 
俵星玄蕃の歌のストーリーはこのようなものである。
歌詞は長大なので載せることは出来なかったが、機会あればぜひ実際の三波春夫の歌を聴いてもらいたい。
幸い動画サイトにも動画があるのでそれを見れば、三波春夫の迫真の演技に感動すること間違いなし。
 
三波春夫は晩年自身で描いた忠臣蔵の著書を出している。
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何故忠臣蔵の本を書こうと思ったのかについて三波は、「たった一人の老人の首を取るために、どうして47人があんなに長い間苦労したのか全く分からない」という若い人の言葉を聞いたことがきっかけという。
大正生まれの三波にとって今の若者、特に男のだらしなさは目に余るものがあったのであろう。
「忠義」だの「武士道」だのという言葉は現代では影が薄くなっているようである。
私は争い事は嫌いである。忠臣蔵も300年以上前の出来事で、討ち入りなどということは今では許されないことであろう。
しかし忠臣蔵が今なお多くの人の胸を打つのは、そこに日本人が失いつつある何かがあるからのように思う。
俵星玄蕃という架空の人物の物語にも多くの教訓があるように思う。
三波春夫もこの「元禄名槍譜 俵星玄蕃」で「男玄蕃の心意気」にその思いを込めているように感じるのである。
 
3回にわたった「俵星玄蕃」についての考察はひとまずこれで終わりとする。
今宵は赤穂浪士の討ち入りの日である。
俵星玄蕃の歌を改めてしみじみ聴きなおしてみたいと思う。
 
なお文中の写真出演は
浅野内匠頭長矩、大石内蔵助、俵星玄蕃それぞれ私、稲岡慶郎である。
撮影は通りすがりの方にお願いした。
外国人の青年、うら若き女性、学生風の青年、それぞれご協力に感謝する。