三波春夫。きものを着て両手を広げ笑顔を振りまきそののびやかな歌声。これが三波春夫のイメージではなかろうか。
私にとっての三波春夫は「俵星玄蕃」のイメージが今は強くなっている。
三波春夫の歌声との出会いは古いものであった。
私が生まれ育ったところは、島根県美濃郡匹見町。今は平成の大合併で益田市匹見町となった。
その町に「匹見町音頭」というのがあり、これを歌っていたのが三波春夫であった。
この音頭は昭和41年に製作されたようである。
運動会、盆踊りなど行事のたびにかかり、踊っていた。
子供のころ最も耳にした歌声かもしれない。
 
三波春夫は若くして浪曲の世界に入った。浪曲師としての名は南條文若。当時もその美声は一目置かれていた。
二十歳で中国に出兵し敗戦を迎え、シベリアで4年間の抑留生活を送る。
その当時の体験が後の三波春夫の生き様、考え方の基礎になったという。
「藝能人とは、藝をもって大衆に喜びを贈り、奉仕しなければならない」という信念。
後に有名になった「お客様は神様です」につながるものであろう。
帰還後浪曲師として再び舞台に立つが、三波の歌に対する思いは浪曲から歌謡曲へと向かわせた。
昭和32年、三波春夫として歌手デビューする。「チャンチキおけさ」「船方さんよ」が大ヒットする。
その後日本の戦後を象徴するイベント、東京オリンピックと大阪万博。そのテーマ曲を歌ったのが三波春夫であった。「東京五輪音頭」「世界の国からこんにちは」である。
私は今もこの二つのイベントほど日本の戦後復興、昭和を象徴するものはないと思う。
それを歌った三波春夫、まさに国民的歌手といわれる所以だろう。
台詞入りの歌も三波の歌を象徴する。
「大利根無情」では「止めて下さるな妙心殿。行かねばならぬ。行かねばならぬのだ。」と啖呵を切る。
長編歌謡浪曲という新たな分野を作ったのも三波であった。
その真骨頂が「元禄名槍譜 俵星玄蕃」である。昭和39年に発表された。
歌謡曲、浪曲、啖呵、そして所作。あらゆる要素を盛り込んだ一大エンターテイメントだ。
作詞、構成は北村桃児。三波春夫その人である。
 
ところで俵星玄蕃とはいかなる人物なのか。
俵星玄蕃を赤穂浪士の一人と思っている方も多いのではないだろうか。私も最初はそう思っていた。しかし赤穂浪士四十七士に俵星玄蕃の名はない。
実は実在の人物ではないのである。
江戸時代から講談などで語られてきた。そしてその名を有名にしたのが三波春夫のこの歌によってである。
 
俵星玄蕃は本所横網町に槍の道場を構えていた、今の両国、国技館のあるあたりであろう。
そこに夜鳴きそば屋「当たり屋十助」というものがそばを売りに来る。この当たり屋十助は実は赤穂浪士の一人、槍を得意とする杉野十平次であった。杉野は討ち入りに備え、吉良邸の偵察のためにそば屋に変装していたのである。それを知ってか知らずか玄蕃は杉野に槍の極意「俵崩し」を披露する。
杉野は玄蕃を「先生」と呼び、玄蕃は杉野を「そば屋」と呼んだ。
玄蕃のもとには連日吉良家の付け人になるよう大金を持って使者が訪れる。しかし玄蕃は赤穂浪士に同情を寄せており、この誘いをきっぱり断るのである。
しかし道場に来ていた生徒は、玄蕃が吉良家の付け人になると思い道場を去って行った。
数日後道場を訪れた杉野はあまりにも変わり果てた姿の玄蕃を見た。
理由を聴き、とりあえずそばを差し入れする。そして何かの足しにとお金を置いて行った。
玄蕃は涙を流す。
後日玄蕃のもとに加賀前田家への仕官の話が来て、玄蕃はこれを受け入れる。
やがて、誤解と知った門徒たちは玄蕃のもとに戻ってきた。道場は再び活況を取り戻すのである。
玄蕃には嬉しさがこみあげてくるのであった。
 
赤穂浪士ではない俵星玄蕃という架空の人物ではあるが、この人の姿を借りて赤穂浪士への敬意と賛辞を送る多くの江戸庶民の声でもあったのである。
 
長編歌謡浪曲「元禄名槍譜 俵星玄蕃」に前口上があることは前回紹介したところであるが、ここにそれを掲載させていただく。
 
さて、吉良少将義央の屋敷の近く本所横網町に
宝蔵院流の槍をとっては天下無双の名人といわれた俵星玄藩がいた
上杉の家老千坂兵部は250石の高禄をもって召し抱えようとて使者を立てた
もちろん吉良家の付け人としてである
だが夜鳴きそば屋当たり屋十助こそ赤穂浪士の一人が世を忍ぶ仮の姿と深く同情を寄せていた玄藩は決然としてこれを断った
「のう、そば屋 そなたには用のないことじゃが
見ておけよ いつかは役に立つことがあるやもしれん」
十六俵の砂俵の前に槍を構えてすっくと立った俵星玄藩
思わず雪の大地に正座して 息を見つめる杉野十平次
ああ これぞ元禄名槍譜
 
いよいよ討ち入りの時が迫ってきた。
今宵はこれにて。