東京渋谷区、小田急線代々木上原駅近くにその建物はある。
「古賀政男音楽博物館」。
日本の大衆音楽の偉大なる作曲家古賀政男の自宅があったところである。
昭和13年にこの地に移り住み、生涯ここで暮らした。
井の頭通り沿いの高級住宅街にあり隣はJASRAK(日本音楽著作権協会)のビルがある。
古賀政男は生前この場所を大衆音楽の音楽村にしたいとの思いを抱いていた。
古賀の死後そこは大衆音楽の博物館として生まれ変わった。
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古賀政男のあゆみ、愛用した調度品などの展示はもとより、日本の大衆音楽の歴史を知ることができる。そして実際にその多くの歌を聴くことができる。またかつての邸宅の模型も展示されている。小ホールもある。
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(パンフレットより)
 
ここは近いこともあり、3回ばかり訪れた。
一番最近訪れたとき改めて驚かされたことがあった。
一つはその敷地の広大さである。三千坪といわれる。豪邸というよりはお屋敷といったほうが当てはまる。
以前はあまり目に止まらなかったのであろうが、今回展示品の中のあるメモに釘づけとなった。
それは古賀政男が亡くなる2日前に書いたメモで、便箋2枚に書かれたものである。
実物が展示してあり、私はそれを読んである意味ショックを受けた。
その場で読み終え、それをメモした。
以下は私がそのメモをワープロで清書したものである。
古賀政男の最後の心境を知るうえで貴重なものと思いそのまま掲載させていただく。
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古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」を読んだ。
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そのあとがきににも同じ趣旨のようなことが書かれてある。
古賀政男の人生は波乱の人生であった。
貧しい少年時代、朝鮮半島に渡り一時期を過ごす。
作曲家として多くのヒット曲を出してからも、レコード会社との対立、人間関係、古賀に対する批判の数々、晩年は病気との戦いであった。
古賀にはつらく悲しいことの多かった人生であったのだろう。
それが曲にも反映されている。
自身の曲を聴くとき、そうした思いが重なってしまうのかもしれない。
古賀政男の代表作であり、作曲家としてのスタートを切ることになった曲「影を慕いて」は古賀が明治大学三年の時に創った。21歳である。蔵王近くの温泉に泊まった時、自殺未遂をしたその夜この詞ができ、後に曲を付けた。
 
まぼろしの影を慕いて
雨に日に 月にやるせぬ我が想い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦れつつ しのび泣く
 
わびしさよ 
せめていたみの なぐさめに
ギターをとりて 爪弾けば
どこまで時雨 ゆく秋ぞ
トレモロさびし 身は悲し
 
君故に 永き人世を霜枯れて
永久に春見ぬ 我が運命
永らうべきか 空蝉の
儚き影よ 我が恋よ
 
この歌について古賀は「愛の破局、生活苦、未来への絶望、当時の私の心象をすべて織り込み、謳い上げたものだ。」という。
確かに明るい歌ではない、悲しい歌、暗い歌でもあろう。
私は若くしてこの歌を覚えた、しかし当時同世代の中で歌うのはばかれる思いもあった。
しかし最近はこの詞の素晴らしさ、メロディーの素晴らしさを改めて実感している。
後の「演歌」の原点ともいえる曲である。
 
先日NHKで夏恒例の思い出のメロディーが放映されていた。そこで唄われた曲は「懐メロ」といわれるものはほとんどなかった。私ですらリアルタイムで聴いた曲が多かった。その中で最も古い曲、田端義夫の「かえり船」が唄われたのは唯一の救いであったような気がした。古賀政男の歌は唄われなかった。
 
歌は世につれといわれる。歌はその時代を反映するものである。古賀メロディーもその時代を反映したものと理解する。悲しい歌は悲しさがあり、明るい歌は明るさがあったことでもある。
どんな時代の歌であれいい歌は歌い継いでいきたい。
古賀政男の思いとは違い、古賀メロディーも消えることなく永遠に歌い継がれるであろう。
ちなみに古賀メロディーの中で私のベスト3を挙げるとしたら、まずダントツで「影を慕いて」、次いで「誰か故郷を想わざる」、あと一曲あげるとしたら明るい歌で「東京ラプソディ」だろう。
 
生涯四千曲ともいわれる曲を作った古賀政男は1978年(昭和53年)7月25日、73年の生涯を閉じた。
その死後国民栄誉賞が贈られた。王貞治に次ぐ二人目、芸能関係では初であった。時の首相は福田赳夫であった。