この時期聴くと胸に響く歌が「長崎の鐘」である。
この歌にはモデルがあった。
1945年8月9日午前11時2分。
この日広島に続き原子爆弾が長崎上空で炸裂した。
この時長崎医大の医学博士永井隆は大学で被爆した。
永井隆は放射線医療を研究し、長年の放射線の被爆により白血病を患っていた。
原爆により重傷を負ったにもかかわらず、負傷者の救護、治療活動にあたった。
妻は自宅で亡くなり、二人の幼子が残された。
この時の様子を病床において書き記したのが、「長崎の鐘」「この子を残して」などである。
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多くの命を奪った原爆の恐ろしさ、そして平和への思い、残された子供への思いを死を覚悟の上で綴った。
永井隆は敬虔なクリスチャンであり、文面にそのことがうかがえる。
これをもとにサトウハチローが作詞し、古関裕而が曲を書き、藤山一郎が唄った「長崎の鐘」が誕生した。
それぞれ当代一流の人により作り上げられた曲である。
 
こよなく晴れた青空を
悲しと思ふ せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
 
サトウハチローは戦後「リンゴの唄」など歌謡曲、童謡の作詞も多く手掛けた。
そして弟を広島の原爆で亡くしていた。
 
古関裕而はこの歌には特別の思いがあった。
自伝的著書「古関裕而 鐘よ鳴り響け」の中で
「私は、この「長崎の鐘」を作曲する時、サトウハチローさんの詞の心と共に、これは、単に長崎だけではなく、この戦災の受難者全体に通じる歌だと感じ、打ちひしがれた人々のために再起を願って、「なぐさめ」の部分から長調に転じて力強くうたい上げた。」と書いている。
古関裕而は戦前、戦後多くの名曲を残した、それは歌謡曲のみならず、行進曲、応援歌、テーマ曲、軍歌など。
今甲子園に流れている「栄冠は君に輝く」もそうだ。
以前私のこのブログでも古関裕而の曲について述べている。
古関裕而の曲の特徴に転調がある。これが曲を格調高いものにし、印象に残る曲となる。
この「長崎の鐘」もそれが遺憾なく発揮されている。
古関裕而は戦前多くの有名な軍歌を作曲し、戦意高揚の役割を作曲家として担った。
この「長崎の鐘」にはそうしたことへの「思い」も込められた歌であると私には思えるのである。
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この曲がラジオから流れるのを聴き、永井隆は感激した。その後藤山一郎が病床の博士を訪ねる。
この時の様子が藤山一郎の著書「藤山一郎自伝」の中で書かれている。
病床の博士の前でアコーデオンを手に「長崎の鐘」を歌ったら感激され、何度も礼を言われた。
後に藤山一郎に一編の歌を和紙に書き贈呈された。
「新しき 朝の光のさしそむる 荒野にひびけ 長崎の鐘」
藤山一郎はこの歌を家宝として大切に保管し、この歌に自ら曲をつけ原曲の後に続けていつも歌っている。
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永井隆は著書「長崎の鐘」の終わりにこう綴っている。
「「カーン、カーン、カーン。」澄みきった音が平和を祝福してつたわってくる。事変以来長いこと鳴らすことが禁ぜられた鐘だったが、もう二度とならずの鐘となることがないように、世界の終りのその日の朝まで平和の響きを伝えるように、「カーン、カーン、カーン。」とまた鳴る。人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾というものがあるが故に、戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ。原子野に泣く浦上人は世界にむかって叫ぶ、戦争をやめよ。唯愛の掟に従って相互に協商せよ。浦上人は灰の中に付して神に祈る。希わくばこの浦上をして世界最後の原子野たらしめ給えと。鐘はまだ鳴っている。」
永井隆は1951年5月1日、妻のいる天に召された。二人の幼い子供を残して。
「長崎の鐘」が発売された1949年、「青い山脈」が同じく藤山一郎の唄により発売された。
「青い山脈は」古い上衣を脱ぎ捨て、新しいものへの憧れを歌った青春讃歌で、日本人の心に残る歌の常にトップを飾る。
「長崎の鐘」は原爆で、戦争で命を失い、傷ついたすべての人へのレクイエムであり、平和への讃歌である。
私には「長崎の鐘」の方が心に響く。