先日私は十数年ぶりにある場所を尋ねた。東京都中野区上鷺宮である。そこはかつて向坂逸郎氏の住居があったところである。今は「法政大学向坂逸郎記念国際交流会館」が建てられていた。
向坂逸郎氏は日本を代表するマルクス経済学者で三池闘争や社会主義協会の代表としてかつての社会党に影響を与えた人である。たぶん今やその名を知る人は少なくなっているであろう。
私が初めて向坂氏にお目にかかったのは1983年大学3年の春であった。向坂逸郎という名前と大体どういう人かというのは、父親の影響もあって知ってはいた。この際ダメもとで会ってみたい。そんな思いからまず書店で岩波書店の「資本論第一巻」(向坂逸郎訳)のケース入りを購入し、向坂逸郎氏のお宅に電話をした。「本に先生のサインをいただきたいのですが」 電話に出られた女性の方が取り次いでいただき「どうぞお越しください」との返事であった。
当時私は鷺宮に住んでいたので歩いて20分ぐらいでお宅についた。その家は平屋建ての古風な建物でいかにも、かつての文化人の住まいといった感じであった。そこの縁側のようなところで向坂氏と初めての対面である。夫人が同席された。泣く子も黙るといわれた方である。よくも素性も知れない一学生に会ってくれたものだと今更ながら感謝の気持ちでいっぱいである。小一時間「雑談」したであろうか、その時いただいたサインは「知は力である 向坂逸郎」と記された。その本は今は実家にあるが、それは私の青春時代の良き思い出であり、宝物である。
その時向坂氏は85歳という高齢であった。今思えばだいぶ体力的にも弱られていたような気がした。
その後私は縁あって向坂邸で行われている「資本論研究会」に参加する機会を得た。毎週土曜日の夜開催された。
しかしそこで向坂逸郎氏の姿にお目にかかることはなかった。向坂逸郎氏は1985年1月22日逝去された。私がお目にかかって約一年後のことである。
向坂逸郎氏はその蔵書が有名であった。7万冊ともいわれる蔵書には、マルクス、エンゲルスに関する原書から文学、雑誌、機関紙、パンフレットに至るまで幅広い。それらは主に自宅の隣に鉄筋コンクリート造りの書庫があり、そこに保管されていた。当時個人で独立したそれも鉄筋コンクリート造りの書庫を持つのはそうないのではないか。
向坂氏の死後その蔵書の整理・目録作りがはじめられた。その作業に私も加わることとなった。専門書と一般書に分かれ、私は一般書の整理に加わった。題名、著者、出版社、出版年月日などを一冊一冊記録していくのである。その作業は向坂邸で2月に始まり約2か月間続いた。結果的にその蔵書は法政大学大原社会問題研究所に寄贈されることとなった。その後さらに専門的に分類され、向坂文庫として同研究所で公開されるに至っている。
さて話を元に戻そう。私が訪れたかつての向坂邸は様変わりしていた。向いは一面畑であったが、家が立ち並びかつての面影はなかった。向坂邸は2階建ての「法政大学向坂逸郎記念国際交流会館」となっていた。ただ隣にはきれいに塗装された、かつての書庫がそのまま残っていた。
初めて向坂逸郎氏にお会いした場所、資本論という難解な書物の学習をした場所。その後の私の政治活動のスタートはここから始まったといってもいい場所。そして今そこが法政大学の施設になっていることに何かの縁を感じずにはいられない。そうした様々な思いを胸にそこを後にし、思い出の道をたどりながら下井草駅へと向かった。
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建物全景 右手前が書庫
 
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書庫全景
 
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書庫の正面の壁には、マルクスのフォイエルバッハに関するテーゼの一文「哲学者は世界をさまざまに解釈してきただけである、肝心なのはそれを変革することである」というドイツ語で書かれた文字が刻まれている。

その後実家にあった資本論を取り寄せた。
これがその時頂いたサインである。