このところずっとジャズボーカルばかり聴いている。

 マックのネットラジオから流れてくるジャズミュージック。

 どこか遠い国の、ラジオ局なんだろう。

 アンニュイな曲だったり、スピーディーなものだったり。

 まるでジャズボーカルが時の流れそのもののようにして、木霊し続けていく。

 なんだかカフェにいるかのようだ。

 スターバックだとか、サンマルクカフェだとか。

 そうでなかったらバーのような、ネットカフェのような、それともどこかホテルのラウンジのような。

 もしくは車の中にいるかのような、夜景の見える店のような。

 もちろん、ただの部屋だけれども。

 なのにジャズという音楽は、そんな時空に関係なく流れていく。

 むしろその場の空間というものを、ピアノの音色やボーカルのオーラで生み出し創っていってくれる。

 なんとも不思議な音楽だ。 

 今では多くのカフェや、飲み屋や、ありとあらゆる店でジャズが流れている。ジャズボーカルを知らず知らずに耳にしてしまう。

 たしかにジャズは、ムードなミュージックだ。

 情感的だったり、哀愁的だったり、する。

 クラシックのように思想的だったり、劇的であるというわけではない。

 ジャズにはジャズの、なんというか、独特の流れ行くままに、というか、演奏にもアドリブといったものがあるだけあってどこか、自由気ままに旅する感じがたまらない人にはたまらないといった事情であって。

 あぁ、モダンジャズボーカルの数々よ。

 なんともきりのない音楽なこと。

 ネットラジオから厳選された女の歌声がいつまでも流れていく。いつでもずっと、そこではメロディーが、ジャジーなボイスが木霊し続けていく。まるで柔らかく寄せてくる波間の海のように、いつまでもそこにあるといえばある、といった感じなのだろうか。

 

 


 

 なんといっても世界は波である。

 波長である。

 それはもう分かりきったことだ。

 そんな世界の中に政治や、経済や、十人十色の価値観みたいなものがある。

 それだけのこと。あぁ、ただそれだけ。


 この世は夢で、そしてまた眠っても夢。

 いずれにしても波のように漂い、流れ、けれども山のように登り、高みを目指しつつ、実は逃げている、向かっている、どこかに。

 寝ても、醒めても。


 強い波を受けている時、違う対象に対して呼応していくというか、波長が合ってくるというか、溺れそうになるというか。

 そういったことが人には、あるといわれれば、あるというしかなくて。

 たとえばそれが男にとって、たとえばサーフィンという趣味のように、人からの波長ではなく、世の神秘としての波に乗ることによって信仰心のような深い心の琴線、のようなものに触れて感じて爽快なのだとしたら、妻として、恋人としては問題はないのだろう。


 そもそも人は誰もが霊的な存在というか、信仰的な生き物なのだし。

 お金を信じてもいい。恋人を信じてもいい。サーフィンを信じてもいい。パチンコや、ロックや、ヨガや、芝居や、研究や、スポーツや、海や、太陽や、山を信じてもいいし、もちろん、信じなくてもいい。

 なにを信じてもいいし、信じなくてもいい。

 好きなものは好きで、嫌いなものは嫌いで。

 結局は趣味の問題。

 そこに笑える要素があればなおさらよくて。

 真顔でスピリチュアルはたしかにキモくなってしまう。

 それにまた外見というか、見た目というのも大切だ。

 もしかしたらそれは、かなり大切か。

 とにかく、ただ、世界は波で溢れている。

 波で、成り立っている。

 

 けれどもいったい、波とはなんだろうか。

 そんなものをいつまでも、恋人や、夫婦に、求め続けていてもいいの、だろうか。 

 シラザァイッテアゲマショウ~。

 ってな感じで強引に押し付けられるのもあれであるし。

 波とはなにか、というのはほとんど、

 恋とはいったいなんでしょう、

 という問いと同じようなものなのかもしれない。

 あぁ、いつまでも流れ、漂い、きりのない世界。

 それは運のようでもあるし、実力のようでもあるし。

 引き寄せたり、そうでなかったり。

 

 波とはただ、感じるもの。

 それはもちろん、目には見えないことになっているのだから。

 けれども海は、その波の姿を体現してみせてくれる。

 岸へと寄せてくるその姿が、まさしく世界をカタチづくっている波の姿なのだから。

 目に見えない波は、言葉や、音楽や、電波のように、五感のすべて、それ以上の感覚を通じて、波として打ち寄せてくる。

 そして人は同じようにまた、波を発していく。放っていく。

 言葉は音楽のようなもの。

 言葉は絵のようなもの。

 言葉は、言葉は。

 言葉は縁起をかついでいく。

 縁が、縁を、呼び続けていく。

 




 お送りいただいた作品を拝見いたしました。

 このたびFさんの描かれた物語は、わが編集部で出版化の方向で検討しているところでございます。

 よろしければ一度、作品と出版化の運びについてお話をさせていただけたらと考えております。

 



 編集部から突然、電話が来た。

 ついこの前のことだ。ふとした時に、そんな話となっていった。

 これでいい、と思って私が書き上げた作品だった。 

 なにはともあれそれは、その時点にとって自分にとってそれでいい、それしかない、作品だった。

 そしてそれは少なからず、私にとって自信をもって人に読んでもらえるものでもあった。



 私は新宿のカフェへと向かった。

 そこで私は、女編集者と面と向かって顔をあわせていった。

 どうも、このたびはお忙しいところありがとうございます。B藝春秋編集部のMと申します。

 あぁ、どうも、Fです。

 私も挨拶をした。

 それではさっそく、作品についての経緯についてお話していただきたく思っております。よろしくお願いします。  



 えぇと、なんていうのでしょう。小説はずっと書いてきたんですけれども。今になってやっと人に読まれるに耐えられるものを書けた、っていう実感はあります。とにかく文学作品として、孤独な人に読まれるに値する作品に仕上げていけたらと思っています。

 そう私は言った。

 なにから話したらいいのか分からなかったが、漠然とM氏へと私は口を開いていった。 



 それから数ヶ月のあいだに、なんどかM氏と私はカフェで会談をした。

 作品について、受賞について、そして出版へと向けた準備について。

 仕上げの最終段階へと入っていく。 

 作品をできるところまで推敲し、構成し、そして校正していった。

 本の装丁や、文字やレイアウトについても話し合っていった。

 なにはともあれ、文学雑誌へと載せるための準備だった。

 私の作品が、とうとう掲載されることになっていった。



 M子とはさまざまな話をした。

 小説のこと、本のこと、出版のこと。

 さらには業界のこと。作家のこと。などなど。

 M氏は私の描いた作品に対してとても好意的な評価をもってくれているようだった。

 それは私にとってほんとに、ありがたいことだった。

 どんな小説を描きたかったのか。それについて私が言葉をひねり出して説明するまでもなく、彼女は作品を読むことを通じて、その意義というか興味深い点をさまざまに汲み取ってくれていた。

 


 一ヵ月後、私の作品の載った雑誌が発売された。

 新人賞として、私は写真を撮ってもらい、さらには授賞式も行くこととなった。

 その前に私は、伊勢丹でそれなりの服を買う。それなり、といってもただのファッションだ。フォーマルともいえない、けれども格安でもない、なんとなく描く人、みたいな格好をするために。

 そして写真を撮った。インタビューに応じた。コメントを、書いた。

 そのあいだのことはすべてM子がサポートしてくれた。

 女編集者M子を通じて、私は書き続けていくきっかけを持ち続けていった。



 それからというものの、私は作品を描いていた。

 書きたいものを書きたいように、描いていった。

 さまざまな作品の提案をした。

 私は自分の仕事を続けながら、小説、みたいなものを書き続けていった。



 はじめての作品の反響は、意外にも好意的なものが多かった。

 もちろん、それは確信的なものではあったけれども。

 なんといってもそれは、世間に挑戦するような作品ではなかった。

 時代性といったものでもなかった。

 別に、なにか特別なことがあったのかといえば、どうだったのだろう。

 とにかくただ、読みやすく、分かりやすく、しただけのことだった。

 とにかく良かった。

 私は自分の感想をM子へと言った。

 女編集者も満足気な表情をみせてくれた。

 とにかくやり遂げることができた。さぁ、スタートはこれからだ。

 そういうわけでもあったけれども。

 なんだかんだで私は、書き続けていった。

 はじめて書いた作品は、雑誌に載り、本となり、そして電子媒体としてケータイなどでも配信されていった。



 編集者と何度かカフェで話しながら、以前に知り合った女作家Y氏を紹介してもらう機会ももった。

 女作家Y氏とはずっと前に、会ったことがあった。

 その時にはすでに彼女は有名で、私はただの無名な書き手にしかすぎなかったけれども。

 こんどゆっくりと話がしたい。

 そう私が言うとY氏は、その時に快く承諾してくれた。

 それから何年か経って、その約束の言葉が、現実のこととなっていった。

 不思議なものだった。

 

 

 たしかに出版業界は混迷を深めているというか。なんていうか。ほんとに売れないのだからしょうがない、というところなんでしょうけれども。雑誌にしても、また、書籍にしても。音楽や映画の世界で大ヒットのようなものが減っているのと同じように、本もまた同じ状況に陥っているのでしょうね。

 女編集者M子はビールで少し酔った感じで話していった。

 

 まぁ、たしかに。ほんと経済がこんなんじゃあ、仕方ないですよね。

 女流作家Y氏もため息をつきながら続ける。

 なんといっても今は、お金を生み出すというよりもむしろ、余った時間を消費することをよしとするような風潮が蔓延してますからね。もちろん小説もオンラインでケータイやパソコンへともっと配信できるようになって、電子書籍みたいなものも広がっていくんだったら、今よりもずっと活気に満ちた業界になっていくんでしょうけど。そのためにはまだまだ、これから色々とインフラを整えていかないといけないのでしょうね。今はほんとに過度期というか、次なる経済システムへの移行期というか、テクノロジーを駆使して進んでいって、いくところまで向かっていくのみ、って感じがしてしまいます。


 たしかに、あぁ、ほんとに、えぇ。

 私はただうなずくしかなかった。

 色んなものが変わっていく。時代とともに移り変わっていってしまう。それは間違いなく、当然のことなのだろう。

 どんな流行も、風潮も、いつかは懐かしく、思い出深いものになっていってしまうのだろう。

 ある産業が低迷していくのならば、そこで働く人々も減っていくのだろう。必然的に人々が去っていく。興味をしめさなくなっていく。ある飽和的な状態が解消されることになっていくのだろう。

 それをある人はバブルがはじける、と呼び、またある人は、過剰じゃなくなった、と感じるのかもしれない。

 

 最終的にはなんというのか・・。

 女編集者M子は言う。

 生き残っていけるかどうか、ということになるんでしょうね。ユニクロ風に言うんだったら、勝つか負けるか、みたいな。まぁ規模が世界を相手にっていうのだから相当なものなんでしょうけれども。

だけど内需の空洞化というものは困りますね、はい、ほんとに。これでも私は、出版業界の労働組合なんかで活動とかもしちゃってるんですけど、ほんとに今はどんなに議論しても、なんかピントがはずれているというか、世代間の時代認識の違いというか、分かり合えない断絶とでもいうのでしょうか。時々、上司のアラフォーな編集者とか殴ってやろうかと思ったりする時もありますし。


 まぁまぁ、そりゃあそういう気分になる時もありますよね。

 女作家Y氏も言う。

 団塊世代の編集者というか、特に男性のおじさん編集者と作品について話しているとついつい、ほんと時代遅れだなぁ、というか、なんでこんな感性でずっと仕事してきたのでしょう、みたいに色々と亀裂が生じてくることもありますし、三十代になったばかりのあたしにとってみれば、以前の出版業界ってものがほんとに、いろんなしきたりにがんじがらめになった過去の世界遺産のように見えてきてしまうのですね。今までそれでよかったことが、今ではもう通用しなくなっているというのに。それでも多くの人が気づいていても、それを見て見ぬふりをしていくというか。とにかくそうやって権威と大衆と広告というものも上手く駆使してここまでやってきたんでしょうけれども。はぁ。

 そう言ってY氏はビールを一気に飲み干していった。


 やはりなんといっても、コンピュータが、というか、インターネットって、すごい発明なんでしょうね。

 私はあたりまえなことを言った、そんな気がしたけれども、かまいはしなかった。私はビールを飲み、自分の作品を発掘してくれた編集者や、アドバイスをしてくれる作家、そして遠くで見つめるようにして読んでくれる読者がいることに感謝するばかりだった。

 

 

 女編集者M子の紹介で、女流作家Y氏と三人でお茶をした。

 カフェで、話をした。

 そもそもY氏と私は、ほとんど歳が同じだった。

 彼女はもうずいぶんと前にデビューをして、そしてずっと私小説のようなものを書き続けていた。

 

 まぁそうですよねぇ、たしかに。なんといっても本は、特に文学っていうのは今ではだんだんと死語にさえなってきそうな感じ、とでもいうのでしょうか。

 Y氏は言い、そして笑ってみせた。

 まぁまぁ、そんなこと言っても、書くのが好きということなんですし、これからも次々と作品、期待してますから。

 と編集者M子も言う。

 

 ところでF、Yさんはどうなのでしょう?

 とM子が私に訊く。

 どうって、いうと?

 なんというか、その、書く、ということに対して、どんなふうに考えているのだろうか、と。

 あぁ、それはまぁ、どうでしょうねぇ、っていうか、映像、だとか、お笑い、だとか、そうではなくて、そういうのじゃなくて、ましてはハウツー本っていうわけでもなくて、けれどもブログでもない、だけど新書とか教養っていうわけでもない、ただ純粋に文学で面白い小説っていうのはこれから、可能性としてどうなのかっていうか、それは作者の人柄みたいなものも大きいとして、だけど作品としても、ミステリーでもなく、推理でもなく、ファンタジーでもなく、ただの文学小説というものが有りえるのか、可能なのか、っていうのは気になるというか。なんといっても世界経済的にもジャパンアズナンバーワンじゃない時代っていう風になっていくとしてその中で文化、というものはどんなふうに育っていくものなのか、育てていくべきなのか、というか。なんというかこれは現実問題としてこれから、この国がどういう方向へ向かっていくのだろうか、みたいな問いとそれほど変わらないことなんですけれどもね。

 

 まぁたしかに、ほんとに色々と問題はありますよねぇ。だけどあたしはやっぱり、書きたい、という気持ちがまず先にあって、だから書かずにはいられない、物語を、描きたい、という動機みたいなものでここまでやってきているようなものですから。

 そうY氏は言う。

 そう言うY氏を目にして、M子編集者はホッとしてみせる。

 

 私たちはカフェで語り、そのまま、新宿三丁目にある居酒屋界隈へと向かっていった。

 もう外は暗く、立ち飲み屋やワインバーが賑わいはじめていた。

 とりあえず、飲まないとやってられないですよねぇ。

 そうM子編集者が乾杯の音頭をとって、私たちはビールを飲み始めていった。