文藝夏冬の編集者であるM子が言う。

 いやぁ、悪くないですよぉ~。

 相変わらずだった、彼女は。

 仕事とプライベートのスイッチを、巧みに切り替えていくことが得意な女だった。

  いつものように私たちは、カフェで話していった。

 


 色々と現代的なモチーフ織り込んでいったつもりなんですけどね。

 と私も言う。

 えぇ、分かりますよぉ。

 M子はうなづいてみせた。

 結局のところ、純文学として勝負しつつ、ちゃんと多くの人に読まれるような作品にしあげたかったわけなんです。

 そう私が言うと女編集者は、

 もちろんあたしも、そのつもりで仕事してますっ。

 と意気込んでくれた。

 私は少しばかり、ホッとすることができたのかもしれない。



 作品のテーマとしての、現代の日本社会というか、経済状況というか、不況や、それにまつわる雇用問題、教育、というか、企業とは?家庭とは?失業、バツイチ、ギャンブル、スポーツジム、草食系や肉食系、さらには癒しや環境、自然エネルギーなどなど、さまざまな要素がちりばめられていて、大変に興味深い物語になっていると思います。

 M子はパラパラとゲラのコピーをめくりながらコメントしていった。

 あぁ、まぁ、そんな感じかもしれません。

 と私も相槌を打っていった。

 なんといっても主人公が、コアラさん、ですからね。

 M子は、コアラさん、を強調して言う。

 その表情は、真顔だった。

 まぁ、なんていうんでしょう。そうすることによって物語におとぎ話なニュアンスを強めるというか、悲劇的なものをやんわりと、やわらかくオブラートで包むともでいうのでしょうか。そんな効果を期待するところも少なからず、私の中の意図としてはあったのかもしれません。

 私は答えて、コーヒーカップを口元へと運んでいった。


 そういえばあの人、どうしているんだろう?

 そんなことをふと、女は夜中にぼんやりと思った。

 それはまるで天から降りてきたひらめきのように、自分の意志とは関係なく思い出したといった感じだった。

 なんといっても去り際が絶妙な女だった。

 と男も夜中にふいに思い出した。

 懐かしい女だった。男にとってはただ謎ばかりだった、その女という存在は。

 もう何年も前の彼女の印象が、彼の脳裏へと浮かんでくる。

 もちろん、どんなに記憶をたどって思い返してみたところで、今の彼女は以前とはまったく違った雰囲気になっているのかもしれない。

 女も同じように、かの男のことを気がすむまで思い返していった。思い出深い、男。いったい彼は彼女にとってなんだったのか。微妙な、絶妙な、関係だった。女も思いつくままに耽っていく。

 


 夜が更けていった。

 静かな夜だった。

 だんだんと記憶が遠のいていってしまう。

 さっきまで思い出していた人のことを、女は、男は、しだいにふたたび忘れていってしまいそうになっていく。 

 街を歩いて、ハッとするようにして見かけた懐かしい人が、実際はただの他人で、そうやって自分が思い出したことに対する恥ずかしさというか、なんというか。

 ほんとにそれは、あっという間の出来事だった。

 夢に突然現れて、目が覚めてみたらすっかり忘れてしまっていた、という感じにも似ていたのかもしれない。

 とにかく、真夜中だった。

 あたりはしんとしている。

 


 どうしてるんだろう。

 男はふたたび思い出していく。

 こんどは、ふと、ではなくて、少し努力するように、懐かしい女の記憶を蘇らせていった。

 まるでそれは深い海底から古代の装飾品でも引き上げるように。丁寧に、そして慎重に。

 女の表情や、何気ないセリフが、ついさきほどのことのように感じられてくる

 女も同じだった。浮かんでは消えていこうとしていた彼といういつかの男のことを、ふたたび脳裏の中でそっと浮かばせ続けていった。彼女の記憶に残っている、彼というその姿や、雰囲気を。

 たしかにそれは、浮かぶ、という感じだった。彼女の思念の中心に、ゆらゆらとその男の印象が浮かんでいく。なによりも女のその瞳が、どこを見ているわけでもなく、宙へと浮かんだようにぼんやりとしていった。

 

 

 どうしたらいいのか分からなかった。

 男は、女は。

 もちろん、どうする必要もないのかもしれない。

 はじまりでもあり、終わりでもあるような感覚。

 男は静かに肩で息をついていった。

 なんだか水が見たくなるような気分だった。

 水というか、海というか、波というか。丘の上から眺める海のように。沖のほうからうねりが、ゆるやかに岸へと近づいてくる景色が浮かんでくる。

 それは湖のような優しい水や、波のようではなかった。

 ピノノワールのようなライトな香味の上品さというよりもむしろ、ボルドーのようなガツンとくる重みというか重厚感というか。

 スマートに崩れていく海の波を、育ちが良さそうに、丁寧にロングボードを使って乗りこなしていく、というわけではなく、ちょっとヘビーな波をドルフィンスルーしていった後に、沖でビックウェーブをつかまえてテイクオフしたような、なんというか、ロングライドしながら、どーんっ、と世界の神秘と一体感になるような、凄み。

 


 まるで世界は、波で成り立っているかのように。

 それはとにかく、あなたは溺れていたのよ。

 女はそっと、ひとり悦にふけていきながら、ピノノワールを堪能していった。

 夜の終わりに、記憶は、そのいちばん深みへと近づきつつあった

 

 





 あっ。
 と言ってお互い目が合ったのは、地元の祭りでのことだった。
 すっかり秋が深まった頃に行われる祭り。
 僕は懐かしい女を前にしてしばらく茫然としてしまった。
 あ
 とやはり僕と女は声を揃えて立ち往生する。
 女は小さなを連れていた。
 僕は東京から電車で二時間ほどのところにある地元へと戻り、少しばかり神輿をかつぎ、幼なじみの奴らとはしゃいで飲んで、ふたたびその日のうちに帰ろうとしていたところだった。
 ひさしぶりだね。
 女は愛嬌よく、だけど少しばかりよそよそしく、僕に向かって言った
 ひさしぶり。
 そう僕も答える。 
 こっちへ帰ってきたり、するんだ。
 あぁ、せっかくの祭りだったからさ。
 そっか。
 だけどほんと何年ぶりだろう、こうして戻ってきたのは。
 
 
 一緒に僕と女は神社のあるほうから駅へと向かって歩いていった。
 相変わらずそうだね。
 そう女は無邪気に言って笑った。
 そっちこそ。
 歩きながら僕もつられて笑みをこぼし、女の横顔を目にしていった。小さなパピヨンを抱きかかえているの様子は、以前とほんとに変わっていなかった。女はずっと地元で暮らしているようだった。
 あたし結婚したんだ。
 女は言う。
 あぁ。知ってるよ。
 知ってたっけ?
 だって見れば分かるよ。
 そう言って僕は女の指元へ視線をおとす。
 女の薬指にはシルバーのリングが、あたしは結婚してるんですよ、といった感じでどこか主張してくるように光っていた。
 だね・・。
 女も当然のことのようにうなずいていった。



 何年も前にも同じように、僕と女は一緒に地元を歩いていた。
 その時はまだ社会人になったばかりの頃で、駅前でばったり会ってから神社のほうへと向かっていった。
 仕事のために地元を離れて暮らすことになったんだと、そんなことを僕は女へと話していった。
 とはいっても、僕と女は以前から顔見知りなだけで、直截的な接点はなくて、お互いに同じ地元の人、といっただけの間柄だった。

 何度か友達の友達、みたいな状況で会ったことがあり、一緒に飲んだりしたこともあったけれども、それでもそんな仲間の輪の中でもよそよそしい関係だった。
 でも、その日の夜、僕たちは神社でキスをした。
 カランカランカランッ。
 誰かがお参りをしている音もおかまいなしに、僕と女は境内にある大きな岩の上に座って唇を重ね合わせていった。
 女の唇は柔らかく、とてもしなやかだった。
 ゆっくりとくねらせるように伸びてくる女の舌先は、まさしく蛇のように静かで神妙な動きだった。

 僕は女のことを強く抱きしめるようにしながらキスをしていった。

 あんなふうに自然にキスができたことなんて、今まであっただろうか。
 もうすぐあたし、結婚するんだ。
 だけど別れ際に女は、そんなふうに言い残していった。

 
 あれから何年も経った。
 久しぶりに会った女が薬指に指輪をしているのを目にして、僕の中へとさまざまな感情が交錯していくのを感じていた。
 地元を離れて暮らすようになってずいぶんと経つ。なんだかたくさんの時間が過ぎ去っていったように思われた。
 過去の記憶と、たった今の印象を、どうにか納得のいくように結びけようと、そんな気持ちで僕は女と接していくばかりだった。
 

 けれども懐かしく邂逅した女は、こんどは僕にこんなふうに言った。
 あたしはもうすぐ別れるんだ、と。
 別れる・・。
 うん。
 どうして・・。
 色々ありすぎてね。
 女は大きくためいきをついてから、小さなパピヨンをしゃがんで抱きかかえていった。
 そして僕たちは駅前の商店街を歩き続けていった。
 神社での祭りのあとだけあって、居酒屋や小料理屋から賑やかな声がもれてきていた。年に一度、さびれた地元にも大勢の人が集まって活気をみせてくれる。そんな日だった。


 あれからあなたは、どうしてたの?
 ふと思いついたように、歩きながら女はぼんやりと訊いた。
 あれから・・。
 僕はつぶやいた。
 最後に女と会ったのは、神社でキスをした時だった。女だってもちろん、そのことを言っているのだろう。
 色々あったといえばあったけれども、相変わらずだといえばそうでもあった。

 僕は地元を離れ、仕事人間となってがむしゃらに生きていただけだった。

 まるでそれはなにかから逃げ続けるように、仕事に夢中になって暮らしていった。

 僕は言葉を探して、選んで、なんとか女に伝えようと思ったけれども、なかなかこれといって上手く、あれから、について話すことなんてできそうもなかった。女と同じように僕も、色々ありすぎたのだったから。
 ただ訊いてみただけだよ。
 そう言って女はふふふと口元を閉めていった。
 

 もうずいぶんと夜も深かった。
 駅までやっとやってきた時には、すでに終電がなくなってしまっていた。
 やっぱり・・。
 僕はそうつぶやいた。もしかしたらもう上りの電車はないかもしれない。そんな気もうすうすしていたところだった。
 どうするの。
 駅のそばの実家で暮らす女は、僕と同じように困った顔をしてつぶやく。
 どうしよう。
 そう言って僕は、駅前にある自動販売機で温かい缶コーヒーをふたつ買った。 
 缶コーヒーを渡すと女は、いいの?ありがとうと言って駅前にあるベンチへと腰を下ろしていく。僕も同じように座った。女と僕のあいだには、小さな犬がしゃがんでいった。



 祭りのあとの地元は、ふたたびいつもの相変わらずなところへと戻っていくかのようだった。駅前からは人の姿が消え、ガランと静まりかえっていった。鈴虫の鳴き声だけが、静けさを際立たせるように聞こえてくる。
 女は甘さ控えめの缶コーヒーを一口飲み、小さく息をついていった。
 僕は無糖の缶コーヒーを一口飲み、大きく息をついていった。
 終電がなくなってしまったのだからしょうがない。 
 を感じさせる夜風が、少しばかり冷たく流れていった。

 どうしてあの時、あたしたちキスなんてしたんだろうね?

 そう女は僕に訊くことはなかった。

 そのかわりに女は、

 あったかいって、幸せなことだよね、と缶コーヒーを両手で握り締めながらつぶやいていった。

 あぁ。

 僕は苦味の効いた缶コーヒーを一気に飲み干していく。

 横をふと目にしてみると、女とのあいだにポツリと座っているパピヨンが、ぼんやりと僕のことを見つめていた。

 クルッとした無邪気な瞳をずっと見つめていると、なにかはっきりしたことを僕は言わないといけないのだろうかと、そんな気分になってきそうだった。もちろんそれは、女へと。

 もしもなにも言葉にできないのならば、言葉にすることもないのならば、それはなにもないのと同じことになってしまうのだろうか。
 途方に暮れている。
 少なくとも僕には、そんな言葉だけがお似合いだった。            (了)