11日から9日経ち、今日は20日。

毎月11日に月命日のように、東日本大震災を忘れないように、何か書いてきました。

東北は身内の故郷でもあり、拠点もあり、忘れることはありません。

むしろこれから何かできないかと、いつも模索しています。

 

気づきば今年ももうあと1ヶ月半。

一年一年があっという間で、時間が短くなっているのではないかと感じる日々です。

世界情勢の変化も激しく、また自然災害も起きるとより深刻になっている昨今。ちょっとだけ気になっているのが一週間前にあったニュージーランドの地震。あの震源地の近くで起きた地震から14日後に起きたのが東日本大震災だったそうで、同じように日本列島に影響がないか注意しています。今月末は少し気を引き締めていた方が良いかもしれません。

 

自然の変動が激しくなり、人間の状態もその影響か、どんどん変化していると感じています。今までのことが全く通用しなくなり、予想や分析がやたらに多くされてはいても、いつも結果は想定外。予測や分析は不安の裏返しなのでしょう。ただ、こういう時こそ古典から学ぶことを提唱している方もいます。常に変動する社会において、読み継がれてきた古典には、どの時代においても通用する知恵がある。だから古典となり存在し続けている。自分の気になる分野、仕事している業界で古典とされている書物にふれることは、目まぐるしく動く情勢において、振り回されず大局から俯瞰できる、大きな視点を得られることでしょう。そういう視点を持った人がいるだけでも、ずいぶん違うのではないでしょうか。

 

ちなみに今、自分自身はマルクスの「資本論」に関する本をちらほら読んでいます。現代は資本主義社会にあること。その体制の矛盾が現代の社会不安を生んでいること。資本家、労働者、土地所有者と三つの階級があるけれど、ほとんどの人が労働者でしょう。生産手段を持たない労働者は自分の労働力を商品として売ることで賃金を得て生活せざるをえないこと。その労働力は本来、商品化できないといい、それは人間は物ではないからであり、などなど。。この体制内においては労働者は必ず搾取される構造にあり、ここを超越するには金銭に関わりのない人間関係の構築がキーであるという意見などなど。

 

自分がどういう社会で生きているのかの理解はそれまで当たり前とされている前提を疑うことになり、その当たり前が本来はおかしいということに気づくことになります。最近の働き過ぎやブラック企業の話もこの資本主義の仕組みがわかれば、最悪の事態を防ぐことができるのではないかとも思えます。

 

古くて新しい取り組み。古典への取り組み。

どんな自己啓発よりも、もっとも手軽な自己成長、自己防衛手段になるかもしれない、古典への取り組み。お勧めします。

10月11日で東日本大震災から5年7ヶ月経ちます。

 

ふと感じる事があります。

人は何に希望を感じて生きているのかと。

また、希望すら感じない人はどうなってしまっているのかと。

 

今、何々だから、幸せ、何々だから大丈夫、ということが一切なくなってる気がします。家族だからわかってくれる、夫だから、妻だから、子供だから、、それらが一切通用しなくなっている。いわゆる個の時代になりし。

 

価値観の共有が分断され、個が独自に生きていけとする時代であり、そういう社会となっている。さらには自己責任の時代。個人情報保護法により、個人の情報が守られているかにみえるが、実は個が分断されているにすぎないと感じるのは時代だからでしょうか。

 

何々だからが通用しない時代。ならば自分を信じるよりない。自分が良いとおもうもの、自分をわかってくれる人に素直に向き合えば良い。わかりあい、受け容れあう関係は優しい。そしてそれは愛になる。家族だから愛があるのではない。夫婦だから愛があるのではない。個と個の優しい関係があって愛があるのです。

 

愛。

愛は男女の愛だけではない。神との関係も愛である。大自然と人間の関係も愛である。愛があるから存在しているともいえる。この愛を矮小化した俗な概念だけで捉えると分断の個がうまれ、それはただの孤独となる。自分勝手となる。

 

何々だからが通用しないのだから、そこに捉われる必要もないのです。助けにもならない関係ならいらないのです。本当に助けてくれるところ、本当に助けてくれる人に向かえばいいのです。

 

そういう出会いはありますか。

どんな絶望も、出会いにより希望に変わりうる。

この出会いは直接的な出会いだけではない。知るという出会いもあるのです。何かあると感じる出会いもあるのです。この場もそういう場になってくれればと感じる、この10月の日々です。(弟玄)

9月11日。

東日本大震災から5年半。同時にあのニューヨークのテロが起きてからもう15年も経ちます。東日本大震災から東北は変わらざるを得なくなり、ニューヨークの9.11から世界はまるで変わりました。どちらも心の奥底に不安と恐怖が刻み込まれ、真の平和、平安な心がわからなくなっています。

思えば歴史とはこの平和と恐怖とのせめぎ合いのように感じます。偉大な魂を宿した傑出したリーダーが正義を要に国や共同体をつくる。人が集う。そして人々は安心して暮らし、子を育み、その共同体を繁栄させていく。

時代が過ぎ、その共同体を攻め込む勢力が現れる。戦いが起き、優しき心など何の役に立つのかと、軍事力長けた者たちに、人としての心を持つ者が滅ぼされていく。これは現代でも言えることでしょう。イラクやリビアしかり。今のシリアはどうでしょうか。古代の文明の発祥の地であり、歴史深いこれらの国々を、その価値観が理解できず、自分たちの価値観に合わぬ者を敵とし、嘘をも駆使して大義名分をつくり、崩壊させていく構図。たしかに権力者の横暴はあったことでしょう。それでも外からみたことだけで判断してはいけないことがある。何よりも、イラクやシリアにおいて、秩序が崩壊し、何千年も守られてきた歴史遺産や文化が破壊され、盗掘され、それらがお金にされていってる現実は目を覆いたいほどのことです。

日本においても、東北地方にかつて阿弖流為を中心にした共同体が存在しました。この阿弖流為という存在のことを知っている人はどれくらいいるのでしょうか。また東北地方の新聞である河北新報とは実は東北人の反骨精神を現すことが示された名前だと知ってる人はどれくらいいるのでしょうか。”はてなキーワード”にこんな説明があります。

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「白河の関所より北の土地は、一山で百文にしかならない荒れ地ばかり」という侮蔑表現。戊辰戦争以来、新政府軍を率いる薩長土肥側が東北地方を卑下して用いた。これにより、奥の細道にも見られる「白河の関を越える」という表現は、単に相対的な位置関係を意味するものではなくなった。転じて、東北人の反骨精神を表すフレーズとして用いられるようにもなり、地方紙「河北新報」の名前の由来となったり、岩手県出身の平民宰相・原敬の雅号「一山」の由来ともなった。
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そして阿弖流為とは桓武天皇から派遣された坂上田村麻呂との壮絶な戦いで知られ、当時の朝廷軍10万近くに対して1万もいない阿弖流為の軍団で何度も退却させたことで知られています。そして朝廷から講和の呼びかけに応じた阿弖流為と母礼の二人は京都で捕らえられ惨殺されてしまう。騙されたとも言われるし、最初からわかって行ったとも言われるこの阿弖流為と母礼を顕彰する石碑が清水寺にあることを知っている人はどれくらいいるでしょう。常に花がたむけられていることから、その魂を継承する人がずっとおられるのでしょう。

こういった偉大なリーダーを抹殺することで生まれる恐怖。その影響は後世にまで及んでいることは、その後のその地域がどうなっているかからもわかり、さらにそこで生きている人のメンタリティに現れているといえます。恐怖から開放されるのに、まずできることは真の歴史を知ること。何が起きていたのか、その背景を知ることから始まります。それが前提となって、何が本当に必要なのかがみえてくるのです。

今、自分たちは歴史の開放をテーマにしたコンサート”高句麗伝説”に集中して参加しています。そこで経験したことの本当の意味を理解することに努め、今後どう現していくのかは、ずっと続けているテーマです。今、変化が激しい時であり、こういう時こそ、真実への道を希求する気持ちが強く湧いてきます。一貫した姿勢、一貫した行動こそ、信じるにたるものです。

9月11日。いつになく世界、日本、特に東北を想う日であります。