暑い日が続きます。
今日8月11日で東日本大震災から5年5ヶ月。

連日オリンピックで賑わうテレビ。
この8月に至るまで、参議院選挙、東京都知事選挙、そして広島、長崎の原爆の日があり、8日は天皇陛下の国民へ向けてのメッセージがありました。来週の終戦記念日も考えると、本当にいろんな事のあるこの夏です。

日本の国とは何なのか、いわゆる国体を考えるにはこれほど適した夏はないかもしれません。今までぼんやりしていたことを深く考える始まりともなるこの夏。東日本大震災は復興という言葉で様々な取り組みがされているけれど、この復興事業により、国の取り組みの優先順位が明らかになっていることも確かです。

為政者にとって最も恐れることは深く考える国民が多くいる事、その事によって、適当な事ができなくなるとはある歴史の本に書かれていました。この深く考えるということも、ただ情報を多く集めれば良いというのではなくて、なるたけ本でいうならば原典にあたる事が重要といいます。ネットの発達によって引用が簡単になされていますが、断片的な知識では思考も断片になるといいます。わかりやすく、というのが流行りのようになっていますが、本当の知識というのは何度も何度も原典にあたって、ようやく理解がはじまります。こういったわかりやすく、引用の表現でわかった気になる状況をある世界的な批評家は”二次的孫引きアマチュア主義”と揶揄していました。

こういう風潮だからこそ、あえて逆をいく、原典にあたる志向はその後の知識の身につき方に大きな差がでるのではないでしょうか。東洋医学などの健康に対する知識において、原典や古典を理解した上での表現かどうかは、きちんと学んだ人にはすぐわかるようです。

暑い夏。考える夏。
暦の上では立秋を迎え、この秋に向けて、今から自分にとって原典と言える本に向き合うには良い時なのかもしれません。

遅くなりましたが、立秋を過ぎましたので、
残暑見舞い申し上げます。


今、ここで。

今、この瞬間瞬間に生きるこの命。
今、ここでの感覚を深める事により、存在はより明確になる。

しかし、現実は逆の状態で生きている。
共にいるのに、他の事を考える。
共にいるのに、スマホをいじる。
場は共有してはいても、頭はどこかにいっている。

この状態は極めて危険です。
交通事故のほとんどは、”今、ここ”への集中を欠いてる時におきている。
物思いにふける、心配事にとらわれる、スマホをいじっている等等。

何かしながらは通用しない。
意識は同時には働かない。
”ルビンの杯”に表わされる杯と顔は同時には認識できない。
意識しなくともできることはある。
それは身体が覚えているからである。
しかし、今、身体が鈍い人が多い。
意識が強い人が多い。つまりは思い込みの激しい人が多い。
それでいて今、ここにいない。
意識はどこかに飛んで行っている。
身体があること忘れていませんか。

最近流行りのゲームもこの観点から捉えると危険極まりない。
バーチャルと現実の境は認識できているのだろうか。
それとも状況に適応して、新たな感覚を進化させていくのだろうか。

いわゆる伝統的な精神修養法は”今、ここ”の感覚を深めるためのもの。
やってみればわかるが、意識過敏になってる時、座禅など組めたものではない。
じっと座っているのが苦痛になる。

”今、ここ”の感覚。
確かにここにいるという感覚。
ずっと在り続けるのはこの身体です。
身体があること、もしや忘れていませんか。




言葉の力。
というと、何かわーっと内から目がさめるような気づきが起こり、、とイメージしてしまうように、力という言葉にはどこか興奮するようなイメージがつきものです。

言葉について学ぶ、言葉の力を身につけるにはいったいどうしたらいいのでしょうか。読む、書く、聞く。は当然のこと。ポイントはこの読む。読むというと現代では黙読を前提としている節があります。が、昔は読むとは音読のことだっといいます。

江戸時代の寺小屋はよく知られているように、論語などの漢詩や漢語を意味がわからなくても、声を出して読ませていたといいます。「子曰く~」と、子供達がみんなで声を揃えて音読していました。この音読は素読とも言われ、とにかく意味がわからなくても声に出すことが何よりも重要。

この効果は絶大で、大きくなった時に、この論語の言葉に触れた時に、正に身をもってその意味を理解できたといいます。この素読の研究でさらに驚いたのは、素読している時の脳波を調べたところ、興奮するよりも、落ち着いた脳波を示したことです。これは意識的に意味を考えながら言葉にすると脳波は興奮を示すのに対して、とにかく意味を考えずに音読だけすることは変に意識が働からないからでしょう、それが穏やかな脳波を示す結果となったわけです。

この素読はたいていは漢語を前提とした音読です。漢語は当然、中国の言葉。これが日本語だったらどうなるのでしょう。この素読の研究の話はそこまでは触れていなかったけれど、確実に良い影響があることは予想されます。神社などで祝詞を聞いたとき、どんな感覚になるでしょうか。また五七調の歌を聞いた時にどんなリズムを感じるでしょうか。さらに古代の日本語が伝えられているという、古事記や万葉集はどうでしょうか。ある研究で枕草子は女性がその心情をありのままに綴った珍しい文学作品で、女性がこの枕草子を音読することで、言葉の感覚が磨かれていくといいます。現代の言葉が男中心の言葉であることを考えると、女性の言葉がそのまま表現されている枕草子は大変珍しいものといえそうです。自分の心情を表現する言葉が身についてない、そもそも学んでいないことからくる問題は実は多いのかもしれません。

この少し時代を遡った言葉にふれること。安易に現代的な意味に頭が働かないことが素読には重要です。もちろん言葉の意味がわかった上での素読で、その言葉の意味を意識するのではなく、感じながらの素読であるなら、それは言葉が身になってる状態であり、その時はきっと言葉に対する感覚がまるで変わっているのでしょう。当然、身体の感覚が変わっていることは間違いないといえそうです。

この江戸時代の寺小屋の挿絵から何を感じますか。
このゆるやかさ、あたたかさ、はつらつとした子供達。
みんなそれぞれなのに、なぜかひとつである。
こうでなくっちゃね、まなびやは。