こんにちは!
最近一回目のワクチン接種をした良玄です(>_<)
職域接種の恩恵にあずかりまして
少し早めに打つことができました
職業柄ご年配の方との接触が多いため
打てるようになったら即打つ気持ちでいましたが
お盆前に終えることができそうで一安心です
モデルナ製のワクチンでしたが
今のところ副反応もなく元気です
早く国民全員が
安心を取り戻せるようになることを祈ります
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さてそんな今回のテーマは
ザルと桶と時々わたし
です
いきなり唐突なテーマですが
これは禅の逸話に由来するものです
私の所属する臨済宗妙心寺派は
京都の花園にある妙心寺が本山です
その妙心寺の開山様である初代住職が
関山慧玄(かんざんえげん)禅師
別の名を無相大師(むそうだいし)と言います
実は無相大師は書物などの語録を
あまり残さなかった方であります
禅は不立文字とも言われる通り
言葉ではなくて心で伝えていくものです
多くの禅の言葉や語録が残されているなかで
徹底して心で禅を説いた無相大師ですが
いくつかの逸話は語り継がれています
その中でも今の梅雨の時期の
雨に関係するエピソードがあります
『器を持ち来たって漏処に当てよ』
というものですが
あるとき雨漏りをする部屋で弟子たちに
「雨漏りを受けなさい」と無相大師が命じます
一人の弟子はザルを持ってきました
もう一人の弟子は桶を持ってきました
すると無相大師はなんと
ザルを持ってきた弟子を褒めて
タライを持ってきた弟子を一喝した
という逸話です
普通に考えれば
桶(おけ)を持ってきた弟子が正解です
雨漏りを止めるのに
ザルではその用を成しません
しかしながら開山様は
そのザルを持ってきた弟子を褒めた
これはどういうことか
これを考えるのが
まさに禅の世界であります
(本堂にある天蓋はインドにおける傘を模したもの)
もちろん答えは一つではないです
これ以降はあくまで私の見解ですが
禅は理屈で説くものではありません
そもそも私たちの人間の心を
理屈で理解することができないように
理論や言葉で伝えるのが禅ではありません
急いでザルを持ってきた弟子には
褒められようとか正解しようといった
計らいの心はおそらくありません
師匠が雨漏りに困っている姿を見て
なりふり構わず急いで持ってきたのでしょう
その心はただ一心不乱に
師匠のためを思う綺麗な心です
もちろん桶を持ってきた弟子も
師匠を思ってのことです
しかしながらザルを持ってきた弟子に対して
少し知識や経験が邪魔をしているように思います
どちらも師匠を想っての行動ですが
ザルを持ってきた弟子の方が
必死さと素直さが伝わる
のではないでしょうか
私たちはどうしても
褒められようとか
認めてもらおうとか
正しいことをしよう
と色々と考えてしまいがちですが
目の前のことに純粋に没頭する
そんな姿を禅は褒めているわけです
目の前で人が倒れたら
誰しも手を差し伸べて
すぐに助けると思います
その時はザルを持ってきた弟子のように
良く見られようという計らいの思いはなく
何ものにも汚れていない綺麗な心があるはずです
(石の上にも野菜です)
そして坐禅会の時にこの話をしていたら
ある雨漏り業者の参加者の一人が
次のように答えてくれました
「わたしだったら手で受け止める」
お見事と唸りました
確かに自分には手がある
その手でまずは目の前の雨漏りを受ける
それもまた一つの禅の心かと思います
雨漏り専門の業者の方なので
ひょっとしたら雨漏りの怖さを体験した上での
最も最適な処置なのかもしれません
それにしても無相大師の弟子が
ザルと桶の他に私自身で受け止めていたら
どんな対応をしてくれたのか
考えるのもまた一興に思います
禅は理屈で説けないからこそ
誰しもが奥を深められる楽しさがあります
ぜひとも雨の多い梅雨の時期にこそ
外ではなく内の自らの心を見つめることで
禅の世界を味わっていただけたらと思います
良玄合掌
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