新年あけましておめでとうございます
今年はヤリキルことにこだわっていきたい良玄です(^-^)/
一年が早く過ぎるということは充実した一年の証
ということを聞いたことがあります
充実しているからこそ忙しい
まさに午年のごとく
一心不乱に駆け巡っていきたいと思います
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さてそんな新春一発目のテーマは
お正月の朝と総茶礼(そうざれい)
です
禅寺のお正月はとても早くに始まります
私のいた修行道場では
大みそかの除夜の鐘がつき終わるのが
だいたい午前2時ごろでした
そしてその1時間後の
1月1日午前3時より
禅の修行道場では特別な時間がスタートします
そのお寺にいる住職や修行僧はもちろんのこと
信者さまも交えた総茶礼が行われます
茶礼(されい)というのは
その場にいる皆が一斉にお茶を飲む儀式
のようなものです
そこに集まった者たちに
同じ一杯のお茶を同じタイミングで飲む
というものであります
乾杯とも似ていますが
粛々と行われるところに
日本らしい静けさの美が感じられます
お正月の午前3時に
本堂というお寺で一番メインの場所に集まり
畳に列をなして座って
お菓子とお茶が配られます
そのお菓子とお茶が全員の元に渡ったら
一斉に頭を下げてお菓子を食べ
お茶を飲み干します
たいがいお菓子は懐紙に包んだまま
着物の袂に入れますが
一斉に動作が揃うところもまた魅力的です
おかわりのお茶をうかがいにまた周るのですが
皆頭を下げてそれを丁寧に断ります
茶道におけるまさにオモテナシの精神が
禅寺のお正月の朝3時から行われているわけです
お茶をテーマにした禅語として
喫茶去(きっさこ)
という有名なことばがあります
『喫茶』はあの喫茶店と同じで
お茶を飲むことであります
『去』というのは助詞であるため
この喫茶去というのは
どうぞお茶を召し上がれ
という意味であります
一見普通のことばですが
こういったものが禅語にはよく登場します
このことばは趙州(じょうしゅう)和尚という
禅のお坊さんに由来します
趙州和尚はお寺にやってきた修行僧に尋ねます
「あなたはかつてここに来たことがあるか」
修行僧は答えます
「はい 来たことがあります」
趙州和尚は返します
「喫茶去」
そして別の修行僧がやってきたらまた趙州和尚は尋ねます
「あなたはかつてここに来たことがあるか」
その修行僧は答えます
「いいえ来たことはありません」
趙州和尚はまた返します
「喫茶去」
これを聞いていた他の修行僧が趙州和尚に尋ねます
「どうして来たことがある人にもない人にも同じことを言うのですか」
そこで趙州和尚はすかさずその修行僧の名前を呼び
その修行僧が返事をした瞬間にこのことばを発します
「喫茶去」
趙州和尚は以前に来たことがある者にも
来たことがなくて初めて来た者にも
同じようにお茶を一服さしあげます
そしてさらには
元々この場所にいた者に対しても同様にお茶をさしあげました
要するにこれは
禅における分け隔てなく
取捨選択や良い悪いといった差別の意識を
一切断ち切った平等の境地を表したものであります
私たちは外見や肩書など
何かと優劣をつけて対応をしてしまいます
しかしながら禅は
そういった自分勝手な判断を否定します
絶対的に綺麗なものもなければ
絶対的に汚いものなどもありません
良い悪いや美しい醜いなど
そういった二元的な対比的な見方や対応に警鐘を鳴らすのが
このことばの教えであります
天秤にかけるのではなく
平等に受け入れる心
このことばはつい忘れてしまいがちな平等な人の心を
思い出させてくれるものであります
お茶を一杯飲むときは
自然と心がすっときれいな気持ちになります
寒い日なんかに温かいお茶飲んだり
疲れている時に甘いお菓子を食べてお茶を飲むというのは
心も身体もほっとするひとときです
喫茶店で飲むコーヒーや紅茶も同じです
お茶やコーヒーや紅茶が
喉から食道を通って
身体と一体となる境地は
まさに自然と一体となる禅の精神を体現しています
来たことがない人もある人も
また元からいた人にも
平等にお茶をふるまう趙州和尚の心意気を
見習っていきたいものです
この茶礼というのは
普段の生活においても頻繁に行われています
会社や家に来客があった際には
まずはお茶を出すということを
私たちは常日頃から行っているはずです
茶礼というのは決して特別な行事なのではなく
普段から身の回りに存在している
素敵な日本の文化であります
お茶を平等にふるまう心
そしてお茶を飲んだときのすっとした気持ち
それを忘れないでいれば
素敵な一年をすごせるように思います
良玄合掌
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