◆切れ字 一
今回から「俳句の文法」について書いていきたいと思います。俳句という「文」にかかわる全般について考えます。
まず初回は「切れ字」の問題について。
切れ字はどうして切れ字なのか、という変な問いから始めます。学校で俳句について習ったとき、切れ字というものが出てきて可笑しさと同時に何か違和感を感じたのではないでしょうか。具体的には「や・かな・けり」など詠嘆の意の助詞助動詞です。それならどうして「詠嘆の字」と言わないで「切れ字」というのだろうかと。
切れ字だから何かを切る訳ですが、これは「句切れ」の「切れ」を言うものではありません。では何を切るのでしょうか。ここで俳句が生まれた歴史的な経緯を振り返る必要が出てきます。大雑把に言えば「和歌」から「発句」が生まれそれが「俳句」になるのですが、この過程で「五七五七七」から「七七」が切り捨てられたのは周知の通りです。
しかし、この時どういう問題が起こっていたのか、実感として具体的に理解しないと「切れ」の重要性が理解できないのではないかと思われます。
実はわたしにはたった一人のお弟子さんがいらっしゃるのですが、その方にLINEで切れ字についてやり取りした部分を、所どころ端折りながら引用させていただきます。
〈私はカラオケでは良い思い出がありません。(注。ある週の「プレバト」のお題)
無茶振りの花見でアカペラ看護実習
言葉を詰め込み過ぎで意味の分からない句ができました。(老人ホームの実習で、聴診器をマイクに演歌を歌ったとのこと。)
〈お疲れ様です。詰め込み過ぎの解消法は、
詞書きにするという手もあります。
看護実習
お花見や座興に乞われアカペラで
俳句は短歌の上の句が独立したものということは前に言いましたが、独立するにあたってはそれ相当の力が必要になってきます。下の句を切り離すために必要な力、それが「切れ字」という強い詠嘆の助辞でした。
切れ字にはどういう威力があるかということは、例えばつぎのような例をみれば感じられるのではないでしょうか。
お花見や座興に乞われ演歌など(切れ字あり)
お花見の座興に乞われ演歌など(切れ字なし)
ここで切れ字がない場合には、つぎのような下の句をつけてみたくなります。
歌い始めて汗拭く私
つまり、切れ字があると、五七五で言い足りている感じがするのに対して、切れ字がないと言い足りていない感じ、言い足してみたくなる感じが残ります。
以上ですが、切れ、あるいは切れ字のない句では完結感が乏しく、下の句があってはじめて完結します。例えばつぎの例でも。
ペン執りて明かり障子の付書院
(一日一善を記してをりぬ)
ある句会でお目にかかった句に下句をつけさせていただきましたが、このように切れ字がないと切り捨てたはずの下の句が回帰して来てしまいます。ある人が書いていましたが、事故で切断した下肢が感覚的にはまだ存在しているという「幻肢」のように。