俳句の入口 8 発表の場 | ロジカル現代文

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■発表の場

 

 俳句を作るために必要なことの第三は、「発表の場」です。作った俳句を読んでもらう場がなければ、逆に作ろうという意欲が出てこないものです。身近な家族に読んでもらうというのでもいいですし、誰か俳句の趣味を同じくする友人でもいいですし、あるいは句会で発表する、俳句誌に投稿するというのでもいいでしょう。発表するためには提出の期限というものがあります。この期限というのが結構重要な契機だと経験上思います。いつまでに何句作らなければならないという外的な強制力がなければ、なかなか作れないものです。そんなしんどい思いをするのはごめんだと感じるかも知れませんが、そうしてでも作ることの楽しさは経験できるものです。モチベーションを維持するためにはこういう発表する機会をもつのが一番です。そもそも「俳句は座の文芸」と言われるように、俳句は師や句友と鑑賞し合って楽しむものです。これがあるからこそ俳句を続けていられるようなものです。さらに句会の後の食事や一杯なども。

 

 ところで、最近わたし自身の「句会」についての概念が変わってきましたので、そのことについて書いておきます。この記事の標題は一応「発表の場」としていますが、句会というのは本来「鑑賞の場」であるべきだ、と思うようになりました。二、三十人集まる句会では「発表の場」にしかならないが、三、四人でする句会であれば「鑑賞の場」になり、この方がおもしろいしこちらの方がより本来の句会の姿ではないかと思えてきたのです。

 

 一般的に句会の参加者は二、三十人、少なければ十数人といったところですが、これくらいの規模の句会でもほとんどの場合句会は「発表の場」であって、「鑑賞の場」にはなりません。そして発表された句についての主宰の選を聞いて終わり、ということになります。主宰が「特選」「並選」という二段階、あるいは「秀逸」などを加えて三段階で評価した作品について講評して終わりという形で、ほぼ主宰の独演会のようなものになっています。互いに鑑賞するということはほぼありません。

 

 コロナ禍でZOOMなどによるリモート句会も増えてきたと思われますが、わたしの属する結社でもZOOM句会を立ち上げてくれる人がいて8人ほどが集まりました。PCやネットの操作が苦手な人が多いので、これ以上の人数は集まりませんでした。主宰にも参加していただいて何回か続けられたのですが、主宰が多忙なため参加していただけなくなり、そうすると主宰がいないのならというので辞める人が出てきて、結局四人だけが残りました。仕方なく四人でも句会を続けていたのですが、しかしかえって四人だけの方が句会が楽しいものになっていることに気がつきました。

 

 互いに感想をいい、そして自分の句の感想を聞かせてもらうということができるので、句会がたんなる「発表の場」ではなく「鑑賞の場」になっていたのでした。そしてまた主宰という権威者がいないおかげで、言いたいことが自由に言えるということもありました。さらに二次会として、俳句についての疑問や問題を考える時間をもったり、旅行した人があればその人の土産話などを聞いたりということもできました。

 

 そもそも俳句は「座の文芸」と言われていますが、これくらいの人数の方が座の文芸にふさわしいのではないかとわたしには思われました。わたしの経験からいえば、座談などで十人の人が集まれば、十人が一つの話題に集中するのはむずかしいように思われます。そのなかの誰か一人が発言していても、全員がそれを聞いているかというとそうではなく、二、三人が別の話題で話をしていたりということがよくあります。また経験上、二人での句会は成り立たないものですが、少なくとも三人いれば句会は成立するし、五人くらいまでの方が「座」としてふさわしいように感じています。

 

 以前わたしは三十人近い句会に参加していたことがありましたが、ここでは句会はただの発表の場であり、主宰の評価をうかがって終わりというものでした。自分の作品が主宰の選にはもちろん、参加者の互選にもあまり入っていなかったりすると、遠くから時間をかけて出かけてきた徒労感だけが残るという具合で、おもしろくはなかったのですが、句会というのはこんなものだと諦めていたのでした。

 しかし、四人の句会を経験してみて、句会というのは発表の場であるだけではなく、本来互いの句の鑑賞の場でもあるべきだというように、句会の概念が変わったのでした。

 

 主宰の選がないからといって退会した人がありましたが、主宰の選というものについての考え方の問題があります。自作の句に対する評価というのは誰しも気になるところです。人の評価から超然としていることはなかなかできるものではありません。しかし主宰の選に入った、入らなかったということで一喜一憂するというのもどうかと思います。主宰の評価が絶対的なものとは考えにくいからです。大きな俳句大会などでは選者が十人くらいいますが、その十人の選者の特選句は十人十色であってけっして特定の一句に集中することはありません。こういう事実一つを見ても主宰の評価が相対的なものでしかないことは明らかです。自作の句を自分で判断してみても、こういう句なら主宰に評価されるだろうが、この句はおそらく評価されないに違いないということがある程度分かるものです。これは主宰の評価を得られないだろうけれども、自分はこういう句が好きなんだと思うこともあるものですし、それが自分の個性であると考えた方がよいでしょう。個性は多様なものなのでそれぞれの個性を互いに認め合えばそれでよいのではないかと思います。そこに優劣を持ち込む必要はありません。

 

 ちょっと余談ですが、日本の俳句人口はどれくらいでしょうか。俳句結社が約575社あり、各結社に少なくとも300人の俳人がいるとして、単純計算では172500人ということになります。結社に属さない句会で俳句を楽しまれている方も相当数いらっしゃると考えると、俳人だけで20万人にはなるでしょう。俳句だけでなく短歌も盛んです。こちらについてはよく分かりませんが、少なくとも俳人歌人合わせて30万人。日本の人口の約400人に一人が詩人であるということになります。たとえこれが500人に一人であったとしてもわたしは多いと感じられます。世界広しといえどもこれだけの詩人がいる国は日本ぐらいなものでしょう。日本は第三位の経済大国ですが、世界第一位の詩歌大国なのは間違いありません。日本の文明が唯一無二なゆえんです。