『映画の構造分析』を読む | ロジカル現代文

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 今回は、内田樹著『映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想』(文春文庫 2011)を読んでいきます。

 
 この本には数々のハリウッド映画が登場しますが、それらは誰しもたいてい一度は観たことがあるような映画です。
 たとえば、「大脱走」「ティファニーで朝食を」「北北西に進路を取れ」「裏窓」「ゴーストバスターズ」「エイリアン」「ディスクロージャー」「黄色いリボン」などなど。

 内田さんはこれらの映画を素材に現代思想を分かりやすく解説しているのですが、映画でそういうことができるということに、わたしなどは驚いてしまいました。
 そして、わたしがもっとも関心をもっているジャック・ラカンやフロイト、ロラン・バルトの思想が解き明かされているのなら、これほど興味深いことはありません。

 なかでもおもしろかったのは、「大脱走」によって「抑圧」について解説している節でした。
 まず内田氏はフロイトの抑圧概念についておさらいをしています。

 〈フロイトによれば、無意識とは「中で幾多の心的興奮が個々の人間のように右往左往している大きな控え室」に似ています。その隣にもっと小さく、もっと整頓されたサロンがあります。それが「意識の部屋」です。この二つの部屋の敷居の所には番人が一人控えています。そして個々の心的興奮を検査し、検閲して、気に入らないことをしでかすとサロンに入れないようにします。
 これが抑圧ということです。ただ注意してほしいことは、番人が意識の部屋に入ることのできるものを選別しているという事実そのものが、意識の部屋からは見えない、ということです。(略)〉(p84)

 〈抑圧についてまず知っておくべきことは、私たちは自分の無意識の心的過程で抑圧が活発に機能していることを「知らない」ということです。
 もう一つの教えもそれに劣らず重要です。それは、抑圧された心的過程はそのエネルギーを失わず、ちょうど堰き止められた水流が別の水路を迂回して流れ出すように、夢、妄想、神経症などの「症候」として再帰する、ということです。
 フロイトは「症候とは抑圧によって阻止されたものの代理物である」と言っています。〉(p85)

 「大脱走」という映画は第二次大戦末期、ドイツの捕虜収容所に捕らえられたイギリス空軍の将校を中心とする連合国軍兵士たち250人が監視の厳重な収容所からの脱走を企てるという話です。

 そうすると、脱走を企てる捕虜たちは「抑圧された心的エネルギー」ということになります。

 そして捕虜たちは心的エネルギーと同じく「代理物」に姿を変え監視の目を欺いて境界線を突破しようとします。収容所からの脱出はトンネルを使って行われるので、脱出後国外への逃亡の過程においてこのことは実行されます。

 収容所長はなにも捕虜たちの「父」ではありませんが、その存在は「父の審級」(ラカンの概念)として位置づけられます。


 この後、内田氏は「抑圧」に関連して重要な概念である「マクガフィン」と「トラウマ」について解説しています。

 まず「マクガフィン」は、フロイトの概念でもラカンの用語でもありません。
 ラカンは「おのれが意味するものの取り消しを求めるシニフィアン」というわかりにくい言い方をしているのですが、ちょうどこういう言い方でラカンが言っているものを「マクガフィン」とヒッチコックが名づけているようなのです。

 ラカンとヒッチコックを結びつけたところに内田氏の創見があるのでしょうが、これはすばらしいところです。

 「大脱走」においては「トンネル」がその「マクガフィン」に該当します。
 捕虜たちが脱走のために密かに掘り進めていた「トンネル」は隠されたものであり、「それが存在しないものとして存在しているもの」です。

 「それが意味するものの取り消しを求めるシニフィアン」についてすこし考えておくと、「シニフィアン」とは「シニフェ」と対概念で「意味するもの」あるいは「記号」と訳されます。要するに「言葉」のことで、「シニフェ」が「意味されるもの」つまり言葉のもつ「意味」ということです。
 
 これでは抽象的でわかりにくいですが、ヒッチコックや内田氏が挙げている具体例をみるほうが分かりやすいです。たとえば、「盗まれた手紙」や「砦の地図」「密書」「暗号」「マイクロフィルム」などが挙げられています。
 これらはいずれもその存在が隠されているか秘密にされているものです。
 つまり「おのれの存在を打ち消すものとして存在しているもの」です。

 この「マクガフィン」について、内田氏はつぎのように書いています。

 〈そのようなシニフィアンが物語の中心に位置しています。どうしてかは知りません。しかし、あらゆる物語において、そうなのです。人間たちの欲望はつねに「おのれが意味するものの取り消しを求めるシニフィアン」を軸にして編制されています。〉

 ここで「あらゆる物語において」と書かれているのですが、内田氏の引用するヒッチコックの言葉にはつぎのようにあります。

 〈この種の冒険小説では、いつもきまってスパイが砦の地図を盗むことが話のポイントになる。この砦の地図を盗むことを「マクガフィン」と言ったんだよ。つまり、冒険小説や活劇の用語で、密書とか重要書類を盗みだすことを言うんだ。それ以上の意味はない。〉

 ヒッチコックは、「冒険小説や活劇」と限定していますが、おそらくそうでしょう。

 「マクガフィン」は「抑圧」とどういう関係にあるのでしょうか。
 そもそも無意識の心的エネルギーが「抑圧」されるのは、その存在が倫理的に認めがたいものであり、だからこそそれはないものとして隠されるわけです。

 そこで分析医の仕事は、抑圧によって隠されたものを発見することになるわけですが、その場合、分析医は隠されたものの「隠され方」を言い当てることはできても、「隠されている中身」まで知ることはできません。


 この点がつぎの重要な概念である「トラウマ」と関係してきます。
 「トラウマ」について内田氏はつぎのように説明しています。

 〈抑圧されたものは必ず代理表象を経由して物語として徴候化します。つまり、抑圧されたものを「そのもの」として直接名指すことは原理的に不可能だということです。その「名づけ得ぬもの」をフロイトは「トラウマ」と名づけました。
 トラウマは個人史の「正史」には位置づけられず、その経験を記憶したり、記述したり、評価したりする言語がその人自身には構造的に欠落しているような経験です。そして、その経験を直視し、それについて適切に語ることができないという「経験の言語化の不能」が、さまざまなしかたで症候化し、世界の見方や感じ方に強いバイアスをかけることになります。〉(p154)

 ここでわたし個人としてもっとも痛切に感じたくだりは、「抑圧されたものを『そのもの』として直接名指すことは原理的に不可能だ」という言葉でした。

 わたし自身にもなんらかの「トラウマ」があるかもしれないが、それが何かを知ることは原理的にできない。そう分かってみれば、かえって解放されたように思われたのでした。
 分かりようのないことを気にしてもしょうがないわけですから。

 ただし、「症候」に苦しめられている場合は、治療が必要になります。

 〈「私」の人格はいわば「ある経験から組織的に目をそらす」というしかたではじめて成り立っているのです。しかし、それにもかかわらずトラウマは語られねばなりません。「私」を苦しめる症候を寛解するために。〉

 分析治療とは分析医と患者が共同して「トラウマ」を「お話」として創出することで、患者の症候を緩和するということになります。

 「ゴーストバスターズ」という映画がここに登場します。

 〈「ゴースト」とは何でしょう。
  言うまでもなく、それは「トラウマ」のことです。〉
 〈ゴーストバスターズこそはアメリカが初めて生み出した(フロイト的な意味での)真の分析家だからです。〉(p159)

 映画では三人の「ゴーストバスターズ」と「トラウマ」の物語に巻き込まれた二人の患者の絡み合いが展開し、最終的に患者は治癒します。


 はじめにも記しているように、わたしにとって意外だったのはこれらの娯楽映画からどうしてラカンの理論を解説することができるのかということです。
 「ゴーストバスターズ」の「ゴースト」を「トラウマ」の解説に使うというのは本当におどろきです。

 映画の映像とラカンやフロイトの理論にどういう関係がそもそもあるのでしょうか。

 この場合に思い出されるのは、そもそもフロイト自身が「抑圧」について説明するのに比喩的な説明をしていたことです。
 先の引用の中にありましたが、人間が右往左往しているような「大きな控え室」と「サロン」があって、その間に「番人」がいる、というように。

 そこで「捕虜収容所」や「監視兵」というのが、抑圧のたとえに似ていることは分かりやすいです。「大脱走」という映画の設定そのものが、抑圧の寓喩になっています。

 またたとえば、映画「エイリアン」について、内田氏はこう書いています。

 〈まず表層的な水準で見ると、『エイリアン』は成功した最初のフェニミズム映画だということができます。主人公リプリーは「白馬の王子さまの救援を待たず自力でドラゴンを倒す」自立した「お姫様」です。〉(p61)

 〈H・R・ギーガーの造型したエイリアンは、その男根状の頭部を見るまでもなく、攻撃の前に口元から滴らせる半透明の液体は、純粋な攻撃性、自己複製を作り出すことへの飽くなき欲望といった徴候から分かるとおり、男性の性的攻撃の記号です。〉(p62)

 この「エイリアン」というのも「男性の性的攻撃性」の寓喩と捉えられています。

 このように映画に登場する人や物から「寓意」が読み取られているわけですが、しかしそれがどうしてフロイトやラカンの理論の寓意でありえるのか。
 これがわたしには疑問でしたけれども、彼らの理論がそもそも人間の欲望についての洞見であり、映画というものも人間たちの欲望を娯楽としてではあるが劇的に描いているものであれば、そこには自ずと通じるところがあるわけです。


 ところで、第三章「アメリカン・ミソジニー 女性嫌悪の映画史」は第一章「映画の構造分析」とは違って、ここにはとくにラカンもフロイトも登場しません。

 

 アメリカ映画に見られる「女性嫌悪」の物語の起源を、西部開拓史における民族的な経験から説明しているというもので、たいへん興味深い内容でした。

 〈アメリカ開拓の最前線には、当然のことながら、女性の数が少なかった。場所によっては数百の男に対して女性が一人というような比率の集団も存在した。それがアメリカにおける「レディ・ファースト」という女性尊重のマナーの起源であるということを私はこれまでに何度か聞かされたことがある。
 女性尊重のマナーは男女比率の圧倒的な差から説明される。それと同じく、女性嫌悪もこの統計的事実から証明されるのではないかと私は考えるのである。〉(p220)

 〈「男たちの集団に一人の女が現れる。彼女は男を『選ぶ』権利を与えられている。男たちは彼女をめぐって競合する。最終的に一人の男が彼女を獲得する。だが、その男は、彼女を棄てて、男たちのもとに戻ってくる。女は不幸になり、男たちの共同体は原初の秩序を回復する。終わり」
 これが「アメリカン・ミソジニー物語」の定型である。この定型をハリウッド映画は実に執拗に、強迫的に反復し続けてきたのである。〉(p224)


 また、第一章の最後の方にあるつぎのごく短い言及は「アメリカの精神分析」のような内容でもっとも興味深かった部分です。

 〈フロイトのトラウマ学説がアメリカに導入されたときに、アメリカ人はその理説のあまりの複雑さにたじろぎました。分析しつつある当の分析家の欲望が患者の「トラウマ」を共同的に「お話」として構成し、それによって患者が癒える、ということを(臨床ではそれと知らずに実践していたはずなのに)理屈としては受け容れることができなかったアメリカ人たちは、一方に分析する主体を、他方にはトラウマを実体験として措定するという荒技に出ました(中略)
 外傷は「事実として」幼児期に存在したに違いないと考えたのです。この点でアメリカ人はフロイトをうまく「呑み込む」ことができなかったのです。
 それは別にアメリカ人が知的に劣っているという意味ではありません。たぶん自分たちのつくった国が先住民の虐殺と収奪から始まったというトラウマが深すぎて、それが「トラウマ概念の組織的な誤読」として症候化したのでしょう。実体としての「デモクラシー」とか実体としての「正義」が存在するという特異な信憑が社会全体に蔓延しているのは、おそらくその症候に他なりません。〉(p160)

 アメリカ映画の主人公はたいてい「正義のスーパーヒーロー」です。
 それが痛快でおもしろいのですが、アメリカ映画を観るたびにアメリカ人の「正義」に対する強い「信憑」を感じて圧倒される思いがありました。

 しかしそれは先住民のインディアンに対する虐殺と収奪という深いトラウマから「反動形成」された症候ではないかと考えると納得できるところがあります。

 

 第二次大戦後の「東京裁判」で、アメリカは敗者である日本を裁きました。

 

 このとき、日本の弁護人であったベンブルース・ブレークニーは、「戦争は犯罪ではない」と裁判自体の無効を訴えました。

 戦争の敗者は、敗者ではあっても犯罪者ではない。戦争が犯罪なら国際法の存在は無意味である、というきわめて真っ当な理由からです。

 

 しかし、アメリカは不当な裁判をしてでも、自らの「正義」を証明したかったわけで、これは「病的」な「信憑」です。

 翻ってわが日本でも、「『和』という特異な信憑が社会全体に蔓延している」のは明らかです。これも何か深いトラウマから「反動形成」された症候ではないか、と考えられます。

 島田荘司・笠井潔の対談『日本型悪平等起源論』(光文社 一九九四)で島田氏が、日本史の「空白の五世紀(三~八世紀)」は「恐ろしいほどの戦乱期だった」。「この徹底した殺戮の時代が、日本人をして、たとえ発狂するほどに退屈であろうと、ひたすら安定を、という決意をさせた」という推測をしています。

 日本社会に蔓延する強迫的な「同調圧力」は、「空白の五世紀」という「トラウマ」のもたらす症候なのではないか、と改めて考えさせられました。

 聖徳太子の「和をもって貴しとなす」には、遠くこの空白の世紀への痛切な反省が込められているのかも知れません。