今回は、『超入門! 現代文学理論講座』(ちくまプリマー新書 2015)を読んでの感想です。
著者は菱沼正美という人で、カバーの紹介文によると高等学校の国語教諭を経て、現在苫小牧工業高等専門学校学校の教授となっています。また監修として亀井秀雄という北海道大学の教授をされていた人の名前があがっています。
この本はちくまプリマー新書の一冊として出されていますので、おそらく高校生を対象に書かれていると思われます。
高校生向けということで小難しい文学理論をかなりかみ砕いて書かれているという印象です。
こういう「文学理論」に関心をもつ人は国語の教師でも非常に少なく(というかわたしの知るかぎり皆無です)、まして高校生となるとほとんどいないのではないかと思われます。
出版から三年以上たっていますが、はたしてどれだけ売れているのでしょうか。
それはともかく、本書では四つの文学理論が紹介されています。
第一講で、ロシアフォルマリズム
第二講で、言語行為論
第三講で、読書行為論
第四講で、昔話形態学
著者は本書の最後の方で、これらの文学理論を取り上げそして紹介した動機について語っているところがあります。まずそれを引用します。
〈かつて一九八○年代、人文科学の全面的な刷新に伴って様々な文学理論が誕生しました。今回の講義で取り上げたのは、その中でも現代の思潮の源流となった四つの理論でしたが、それらを含め、まさに文学理論そのものがブームとなり、「小説を読むより文学理論を読む方がはるかにおもしろい」とも言われていました。
ただしそのように関心を寄せていたのは、あくまで文学の専門家たちであって、それ以外の人たちには、関心を持つきっかけもなかったし、またあったとしても多くの理論が難解であったために、ほとんど取り付く島もないといった状況でした。
それから三十年以上経過した現在、文学理論に対するかつての熱気のようなものはなくなり、状況はすっかり落ち着いてきてしまいました。しかしだからと言って、文学理論そのものが意味を失ってしまったのかと言うと、決してそうではありません。ピーター・バリーが『文学理論講義 新しいスタンダード』(高橋和久訳、二○一四年、ミネルヴァ書房)で言っているように、「理論は少数の専門家だけの関心事ではなくなり」、むしろ「多くの人にとって日常的な問題になって」いると言えます。彼のことばを借りるなら、理論の「瞬間」から、理論の「時間」に移ってきたというわけです。その意味で文学理論は、私たちの日常に活かされていなければならないわけですが、相変わらず一部の専門家たちの「瞬間」的な出来事にとどまっているとも言えます。取り分け国語教育においては、本来文学と密接な関係にあるにも拘わらず、「瞬間」にすらなってこなかったように思います。〉(p227)
たしかに一九八○年代、文学理論・批評理論はまさにブームとなっていました。そしてここに著者が嘆いていることはまさにその通りで、文学理論などというものは国語科の教師たちにはまったく興味も関心ももたれていませんでしたし今もないといえます。
国語の教科書には教師用の「教科書ガイド」にあたる「指導書」というものが教科書会社から出されています。
その「指導書」に書かれていることは、要するに文章を「逐語的」に詳しく読むということに尽きます。
教材の本文が小説であろうが評論であろうが詩歌であろうが随筆であろうが、すべてたんに「文章」としてしか扱われていません。すべて等し並みに、日本語で書かれた文章でしかないのです。
文学理論などという七面倒くさいものを参照しなくても、小説は主人公の心情に寄り添って感性豊かに健全に読めばよい。これがごくごく常識的な考え方なのでした。
こういう風潮に抗して、著者は新しい文学理論を使って教材を読もうとされたようで、わたしも蓼沼氏の試みにはたいへん共感できます。
小説には小説の読み方があり、評論には評論の読み方が、詩歌には詩歌の、随筆には随筆の読み方があるとわたしは考えていました。小説の文章には小説を小説たらしめているものがあるのであって、それをたんなる文章に還元してしまって読むだけではいけない、と考えています。
蓼沼氏も学校教育で行われている従来の小説の読み方を変えたいということなのでしょう。
そのためのヒントを本書で示されているわけですが、これらの「理論」が「教室」で使われるためには、おそらくもっともっと噛み砕く必要があるのではないかと思われます。
たしかに理論がさまざまな事例によって分かりやすく解説されてはいますが、国語の教師がほとんど関心を示さないものを高校生が自分で使えるようにするためには、このままではかなり問題があるのではないでしょうか。
国語の教室においてこれらの文学理論が使えるようにするためには、理論のエッセンスをもっと単純化して提示しなければ、文章を逐語的に読むことを超える方法として使えるものとはならないように思われます。
たとえば、第四講でウラジーミル・プロップの「昔話形態学」が紹介されていますが、ここで解説されている31の「機能」を小説にあてはめて読むというのは、非常に煩雑であまり意味の無いことになってしまいます。
かといって、蓼沼氏が紹介している『幼い子の文学』の著者瀬田貞二氏の言う「行って帰る」という物語の構造では、物語を単純化しすぎることになり、これもまたあまり意味がありません。
わたしは、ツヴェタン・トドロフのいうように、物語の構造を三つの要素で構成されると考えるのがシンプルでかつ主人公の内面を捉えるにも優れていると考えています。
トドロフだけでなく、クロード・ブレモンやジャン=ミシェル・アダンなども三要素で物語の構造を捉えています。
(これらについては、2012年5月3日の「文章の法則」で触れていますので参照ください。)
①「課題」:物語の発端として何らかの欠如が主人公の身に生じ、その欠如を解消することが主人公にとっての行動の目標となる。
②「事件」:その課題の解決にかかわる何らかの出来事が発生するが、その出来事の結果によって欠如が充足され(あるいは充足されず)、主人公の内面にある変化が生ずる。
③「結末」:事件の後、主人公は非日常的な場面から再び日常へ回帰し新たな秩序を獲得する。
三要素をこのように名づけて捉えることで、小説の全体を捉えることもでき、また段落ごとの場面をも捉えることができます。
(これについてもすでにいくつかの小説教材の分析で示していますので、参照いただければ幸いです。)
また、第一講の「異化作用」は詩歌の分析に有効なので、わたし自身もすでに試みています。
そして、第二講の「言語行為論」は、さし当たり小説の会話をこれによって分析してみれば、いろいろ面白い発見ができるのではないかと思われますし、日常の言語活動を反省する方法にもなるでしょう。
以上、文学理論の有効性・有用性ということについて少し考えさせられました。