先日、『魔女の宅急便』を観ていた時のこと。
最後に、キキが男の子を連れて、空から舞い降りて来るシーンがある。
そのシーンを観て、私は真っ先にキリスト教的だと感じ、クール(美しさと言っても良い)だと思った。
この感覚は、キリスト教を背景に作られた『天使と悪魔』における、パラシュートでカメルレンゴが空から舞い降りて来るというような明らかな描写でなくとも、上記した『魔女の宅急便』のような全く関係のなさそうな映画でも感じることができる。
もっと言えば、ゲームの世界でもその感覚はある。ファイナルファンタジー6の最終戦で、世界の「神」となったケフカが、空から舞い降りて来るシーンでも感じ取ることができる。
このように、日常に溶け込んでいるキリスト教的所作に、私たちは違和感を持たない。
違和感どころか、そこに美しさや格好良さまで感じているのだ。日本人の殆どがキリスト教徒ではないのに。
一体なぜ、キリスト教は日本で受け入れられ(信仰するという意味ではない)、さらに美しさ、格好良さといったプラス要素を持てたのか。
戦後の話に限れば、やはり初めは、アメリカという、多くの国民がキリスト教を信仰している国に日本が戦争で負けたことで、日本人からアメリカ人への羨望が生まれたということが大きな理由としてあげられると思う。
この羨望が、プラス要素を生み出したのではないかと考える。
しかし、羨望以外の理由として、キリスト教が日本に宗教ではなく、文化として入って来たため、受け入れやすいものになったということもあると思う。
キリスト教が文化として入ってこれたのは、キリスト教の特徴として、縛りがないというものがあるからだ。
イスラム教は、ブタが食べられなかったり、女性はブルカを着用して外にでなければならなかったり、毎日祈りを捧げなければいけなかったりと、宗教的側面が強く、非イスラム教徒に対して閉鎖的であると言える。
一方キリスト教は、大きな制約を押し付けられない。つまり、日本人の持つ美しさや格好良さに合わせて、いいとこ取りができたわけだ。
こうして、キリスト教の中でいいとこ取りをしたプラス要素が日本人の生活に浸透し、一部分をプラスに受け入れたことで、全体を受け入れやすくなり、キリスト教的観念が日本に染み込んでいったのではないか、と私は考えている。
iPhoneからの投稿
最後に、キキが男の子を連れて、空から舞い降りて来るシーンがある。
そのシーンを観て、私は真っ先にキリスト教的だと感じ、クール(美しさと言っても良い)だと思った。
この感覚は、キリスト教を背景に作られた『天使と悪魔』における、パラシュートでカメルレンゴが空から舞い降りて来るというような明らかな描写でなくとも、上記した『魔女の宅急便』のような全く関係のなさそうな映画でも感じることができる。
もっと言えば、ゲームの世界でもその感覚はある。ファイナルファンタジー6の最終戦で、世界の「神」となったケフカが、空から舞い降りて来るシーンでも感じ取ることができる。
このように、日常に溶け込んでいるキリスト教的所作に、私たちは違和感を持たない。
違和感どころか、そこに美しさや格好良さまで感じているのだ。日本人の殆どがキリスト教徒ではないのに。
一体なぜ、キリスト教は日本で受け入れられ(信仰するという意味ではない)、さらに美しさ、格好良さといったプラス要素を持てたのか。
戦後の話に限れば、やはり初めは、アメリカという、多くの国民がキリスト教を信仰している国に日本が戦争で負けたことで、日本人からアメリカ人への羨望が生まれたということが大きな理由としてあげられると思う。
この羨望が、プラス要素を生み出したのではないかと考える。
しかし、羨望以外の理由として、キリスト教が日本に宗教ではなく、文化として入って来たため、受け入れやすいものになったということもあると思う。
キリスト教が文化として入ってこれたのは、キリスト教の特徴として、縛りがないというものがあるからだ。
イスラム教は、ブタが食べられなかったり、女性はブルカを着用して外にでなければならなかったり、毎日祈りを捧げなければいけなかったりと、宗教的側面が強く、非イスラム教徒に対して閉鎖的であると言える。
一方キリスト教は、大きな制約を押し付けられない。つまり、日本人の持つ美しさや格好良さに合わせて、いいとこ取りができたわけだ。
こうして、キリスト教の中でいいとこ取りをしたプラス要素が日本人の生活に浸透し、一部分をプラスに受け入れたことで、全体を受け入れやすくなり、キリスト教的観念が日本に染み込んでいったのではないか、と私は考えている。
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