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  釣り場への道程

  俺は歩いている。
 竿一本担いで歩き続けている。
 そこは汚れきった港。
 水は汚濁にまみれ、船達は錆び、船底に穴を開け傾いたりひっくり返ったりしている。
 かつては旺盛だった造船の名残とも言える巨大なクレーン達も赤茶け沈黙している。
 港の際も崩れ、コンクリートのブロックは傾き半没した船の列を押しつぶしている。
  死にかけた港だ。
 俺はそうした退廃と荒廃を横目に歩き続ける。
 腐った魚と油の匂いが鼻につくけど、それだってあそこで釣りをするための洗礼みたいなものだ気にするな。
 俺は歩き続ける。
 コンクリの外壁が崩れ、屋根がへこんでいる倉庫の並びを横切り、その倉庫群の狭間にある場違いな雰囲気をかもした銭湯の残骸へと足を運んだ。
 煤けた煙突は折れ、屋根の大半は落ちて浴場に雪崩れ込み、そこでさらに痛みが進行してガラスや鉄材の骨組みを曝している。
 かつては船乗り達がその身を癒やしていたであろう巨大な浴槽は、そうした廃材に溢れ、すえた匂いで満たされている。
 割れた鏡。
 剥がれたタイル。
 俺が歩を進めるごとに、それらを踏みしめざるを得ず、静寂の中で時には乾いた、時には耳障りな擦過音を立ててしまう。
 静寂を犯してしまう。
 俺はしばし立ち止まり、星空を仰いだ。
 星の光。
 月の輝き。
 それらが足下に散らばる鏡のなれの果てに映え、束の間星の海に佇む錯覚に陥る。
 この退廃した地上から仰ぐにはあまりにも神々しく清浄な夜空と星達の世界。
 それら星の連なりの壮麗に、今ここで感嘆することが罪にすら思える。
 けれど、ここは俺が通るべき順路だ。
 なぜならここは俺の記憶の中にある光景だからだ。
  まだ幼い頃の記憶だ。
 釣り好きな父に連れられ、この港を訪れた時の記憶だ。
 その頃は、これほどまでに荒廃するなど想像するのが難しいほどに栄えていた港。
 俺は父と、釣りをするためにここを訪れた。
 岸壁の際から見下ろす海面は不気味で、気味の悪い半透明のクラゲたちが漂っていた。
 まるで透明の傘が群れを成しているかのように、そいつらはたくさん、ぷかぷか浮いている。
 薄気味悪くて、こんな所で釣りなんかしたくないって俺は身震いしたけど、父はそんな俺を他所に糸を垂れる。
 俺も渋々竿を出したんだが、しばらくすると父の竿に突然のあたりがあり、余程の力だったのか異常なまでに曲がる竿先が海面へと達する。
 普通なら糸なり針なりが切れるほどの力だというのに、手に負えないのならさっさと竿を手放せば良いのに、父は不意を突かれて足元を乱し海に落ちた。
 その拍子に父は俺にぶつかり共に海に落ちた。
 恐怖だった。
 視界が空と水の境を行き来し、嫌というほど海水を飲んでしまった俺は浮力を失い底に沈んだ。
 水浅葱の中でもがき続ける俺の意識が遠のき始める。
 よほどの深みのある海底へと沈み始める。
 しかし、俺は見た。
 底に沈んだ小ぶりな艀の残骸に足を絡めて、ゆらゆら揺れている父の姿を。
 海底の暗闇の中、無数のクラゲたちに纏わり付かれて青白い光に包まれている父の姿を、俺は見たんだ。
 溺れている時にもがいた弾みでクラゲたちの触手を絡め取ってしまったためなのかもしれないが、父は光るクラゲたち彩られ、その死に顔すらも鮮明に認めることができた。
 ・・・ああ、俺も死んじゃうんだな・・・
 ぼんやりとそうした諦観の思いに囚われかけた時、閉じていた父の眼が大きく見開き、俺を睨みつける。
 そして、肺に残った最後の空気を吐き出しつつ何かを叫んだ。
 父の口元から溢れる気泡がクラゲたちの輝きで無数の真珠に見えた。
 俺は、その父の形相に恐怖した。
 父の足下から黒い何かがにじみ出す。
 艀の骸だと思っていたものが動き出す。
 同時に泥が舞い上がり俺の視界を奪い始める。
 その最後の瞬間俺はそいつの巨大な姿を目の当たりにした。
 蟹のような・・・蛸のようなもの・・・この世のものではない何かの姿を。
 俺は絶叫した。
 意識が遠のく。
 目覚めたのは病院のベッドの上でだった。
 俺は岸壁のコンクリの上で海水と海藻まみれで気絶していたらしい。
 いったい誰が俺を引き上げてくれたんだろう。
 いったい何者が。
 父の遺体は上がらなかった。
 あれから何年、何十年経ったんだろう。
 今でも夢に見ることがある。
 あの時父は何を叫んだのか。
 あの時父は何を望んだのか。
 俺が見たあれは何だったのか。
 知ったところでどうなる話でもないが、知りたいという欲求に抗えなくなっている自分がいる。
 だから俺はあの釣り場を目指している。
 あれを境に栄えていた港は急速に荒廃した。
 そして俺は今、朽ちかけている港を歩き続ける。
 打ち捨てられた倉庫群の小径に溢れる漁網をかき分け、ブイを踏み潰し、山積みされた船板の残骸をよじ登り、あの時の釣り場を目指している。
 担いでいるのは竿1本だ。
 すでに仕掛けは繋いでいる。
 餌は・・・
 餌はある・・・
 あいつに普通の餌は通じない・・・
 だけど餌はある・・・
 竿を握ることができなくなるまでは・・・
 リールを巻くことができなくなるまでは・・・
 餌はある。
 懐にはナイフを隠している。
 あれはこの世のものじゃなかった。
 俺はもう、あの時から海に帰ることを定められていたのかもしれない。
 あれは俺に呪いをかけたのかもしれない。
 俺はおかしくなり始めているのかもしれないが知ったことか。
 
 大きくなったら戻って来い。
 
 俺は、喰うには小ぶりすぎたのかもしれない。

 だから、あの時逃がされたんだ。
 ならば。
 勝負だ。
 俺は決意していた。
 どっちが勝つか試してみようじゃないか。
 道が拓けて来る。
 俺は足下に転がる半分潰れたブイを海へと蹴飛ばした。

 そして、餌をつけ、竿をかまえた。
 左手の中指があったところに痛みを感じながら。


                                                                    完