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 これが私のもとに届けられた、吉村武次による手記の全文だ。
 この手記が収められた分厚い包みを武次は私の母に手渡し、学校から帰宅した私の手もとに届いた。
 私は・・・待った。
 その日の夜。
 窓を開け放ち、彼らが訪れるのを待った。
 ときめくような希望と、裏腹な胸騒ぎを憶えながら。
 羽の種を・・・
 人を変える、未知なるものへの憧憬に掴み所のない望みを懐きながら。
 羽を得た者の多くは死に至る。
 飛ぶ事を侮るがために。
 でも、果たしてそれだけが原因なのだろうか?
 種は人の心までも変えてしまうからなのではないのか?
 あの穏和な真澄が、無論、美代子の死を招いた者達への怒りこそ懐いても、そうそう簡単に殺人などという行為に及べるものなのだろうか?
 私を不安にさせるほどの真澄の豹変は、一体何によってもたらされたのだろうか?
 種がそうさせたのではないのか?
 羽の種が・・・
 人の心の中の倫理のたがを緩めてしまうものなのではないのか?
 羽の音色が・・・
 それを奏でる者達を狂わせてしまうのではないのか?
 もしもそうなのなら・・・
 そういうものなのだとしたなら・・・
 それでも、私は武次の言う羽の力に強い憧れを抱かざるを得なかった。
 真純を失ったこの世界で、私という脆くもあり浅ましくもある業の深い人格を懐く愚者が、生きるという営みを続けていくためには羽の力にすがるしかないと、その瞬間に私は確信していたのだ。
 真純はもういない。
 しかし・・・その双子の片割れが、真純と寸分違わぬあの面影が、まだこの世界には健在なのだ。
 私を陥れ、利用した羽共。
 ならば・・・・

 私の中には抗いようのない報復の念が渦巻いていた。
 
 悟られてはいけない・・・・

 まずは羽を獲得しなければ・・・・
 私は待ち続けた。


  星の海。
 手を伸ばせばとどきそうな星達。
 ああ・・・これほどの高みから、彼らは月を仰いだというのか。
 愚かな羽達。
 己の力量も顧みず自らを滅ぼす愚かな物達。

 私は制御している!

 念じ続ける私の意志は揺るがず、ただただ羽の微細な振動と揺らぎの変化に意識を注ぎながら。
 私は上昇している。
 得がたい感覚。
 決して望んだものではない。
 しかし、今や種は私の中にあり、彼らには及びようもない練度によって操られている。
 私は羽の機嫌を伺いつつ機動を楽しむ。
 愚かな物達。
 飛翔のための推力の源の気性すら伺えなかった物達。
 私は瞬時に判断を下し、運動エネルギーを位置エネルギーへと変換しつつ高みを目指す。
 遠くから声が聞こえる。

 戒めと呼ぶ声が。
 彼らが聞き取れなかった声が。
 しかし、私は耳にしている。
 戒めなど必要とはしていない。

 現に私は飛んでいるではないか!
 彼らには為し得なかった高みへと登り詰めているではないか!


 声が近づく。
 私は眼下を見下ろす。
 羽がいた。
 ふたつの羽が。

 私の心に怨嗟の念が拡大する。
 武次と真純・・・いや、由衣子。
 私は旋回し降下を開始する。
 羽の出力を高め、奴らを切り刻んで・・・
 負けるわけがない。
 私の方が上手い!
 奴らとの距離が縮まる。
 突然に、背後に気配を感じる。
 何かが・・・冷たい肉が・・・・
 悪寒に震え、振り返ると・・・美代子が・・・青ざめた笑みを浮かべた美代子が私に絡まってくる。

 私は絶叫した。

 ・・・私の羽・・・

 美代子は濁った瞳を大きく見開きながら、私の背中に爪を立てる。

 ・・・私の羽だったの・・・
 ・・・私の・・・
 ・・・一緒に飛ぶはずだった・・・

 ・・・・返して!・・・

 背中に激痛が走る。
 私は・・・
 私は・・・

 私は・・・美代子に許しを乞い・・・
  急速に降下を始め・・・

 私は目覚めた。
 いつの間にか、机に突っ伏した格好で寝入ってしまっていたのだ。
 彼らを待ち、開け放たれていた窓からは、朝の鳥達のさえずりが流れて来る。

 彼らは来なかったのか。
 しかし、私の上半身は裸になっていた。
 目蓋の不快を覚えながら、寝ぼけて脱いだのかと訝しみながら机の上を見た時のことだ。
 私の心は凍りついた。

 それは・・・
 赤いセロファンに包まれた羽の種。
 そのひとつが開封されていた。
 私は怯え、部屋を見回した。

 彼らは、無防備な私の意識から、抱いていた策謀の念を感じたはずだ。
 ならば・・・

 ・・・なぜだ・・・

 なぜ、彼らは・・・私に種を植えた。

 私は呆然と窓の外に広がる水色の朝空を仰いだ。
 そして、私が見た夢は・・・あれはいったい・・・

 私にはわからない。

 わかる術もない。
 
 しかし、なぜ彼らは私に会おうとしなかったのか。
 なぜ、私の邪念を知りつつも、種を植え、黙したままで姿を消したのか。
 その場で私を切り刻んでも良かったのに・・・
 私を叩き起こし、恨み言を謳っても良かったのに・・・

 その答えと思われる記事が今朝の朝刊に掲載されていた。


 昨夜の午後7時、東京発足柄着の北海航空856便 ボーイング747型機が足柄空港へ降下中、高度600メートルの上空で突然第3エンジンが爆発し、同空港へ緊急着陸した。
 乗員乗客203名に怪我はなかった。
 記事では同機が整備不良、あるいはエンジンの欠陥の可能性を匂わせていた。
 さらに翌日の新聞で、破損したエンジンの内部から、人体の一部と思われるものが大量に発見されたことが大見出しで掲載されていた。

 同空港で、破損したエンジンを調べていたところ、損傷したファンブレードに絡まった無数の長い髪と人体の一部が見つかったらしい。
 詳しいことは調査中だが、鳥では有り得ないことから同空港及び航空・鉄道事故調査委員会は同夜に無許可で飛行していたモーターグライダー等がいなかったかの確認を急いでいるといった記事だ。
 それこそが、彼らが姿を見せられなかった理由ではないのだろうか。
 ふたりの夜の密葬は、たまたま巨大な飛行機械の進路と重なってしまった。
 エンジンに吸い込まれたのは・・・長い髪ということから考えれば・・・由衣子なのだろう。
 私のもとをひっそりと訪れたのは武次なのだ。
 私に姿を見せなかったのは・・・おそらく彼も激しく負傷していたからではないのか。
 そして、さらに言うなら・・・・
 密葬の後、いたずらに高みを目指したのは武次ではなかったのか?
 その夜、初めて飛んだ武次だ。
 真純の目指した高みへと、衝動的に飛翔したのだと、それを戒めようとした由衣子は飛行機の接近に気づくのが遅れ・・・

 わからない・・・武次と由衣子の系譜にある私に植えられた種は、その時はまだふたりとは繋がってはいなかったから・・・ただ、そうなのではないかと、私自身が納得したいだけなのかもしれないが・・・武次が生きているにせよ、すでにこの世のものでないにせよ、私はそれでもう、この羽の問題に終止符を打つつもりでいた。
 私の中で今、確実に種は息づいている。
 私の手元には、もう一対の羽の種がある。
 それならば、私はすべてを忘れ、いつかの未来に種を使うその日まで、武次のことも真純のことも、殊更に忌まわしい美代子のことをも、記憶の井戸の奥底に封印し、今まで通りの暮らしを続けるしかないではないか。
  仮に武次が生きているのだとしても、種を通しての私との連帯を彼は拒絶しているのだから。
 私には関係ない。
 むしろ出会うべき必然は微塵もない。
 私の中の殺意は未だ残り火のように燻り続けているのだから。
 ああ、しかしだ。
 私の心の中の真なる願望を吐露することを許してもらえるのならば・・・
 その一方で彼と、武次と再会したいと願う、もう一人の自分がいることも否定できない。
 出来うるならば武次と再会し、羽という刃を交わして彼に討ち取られたいという願いを懐く、もう一人の私が・・・
 そうだ。
 そうすることが、彼に対して懐く怨嗟を超えて私の中の純朴で気弱な、真なる鈴木香椎の懐く本当の気持ち・・・
 
・・・彼等に贖罪したい・・・

 それが叶わないのであれば、また、自らの命を絶って彼等に贖罪するという勇気すら懐けない愚劣な人格者である私であるとするならば、すべての過去に終止符を打って新しい何かを始めてみるしかないではないか。
 
  しかし・・・
 それから数年の後、私は知った。
 武次の手記には偽りがあった。
 また、私の懐いた疑問に対することへの解答も。



 

 


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