「その日の夜に、月を見上げて」


  第一部 放課後


 空が赤味を帯び始めていた。
 何とも退屈で押しつけがましい・・・内容は、もちろん一大事であることには違いないのだけど・・・授業が終わり、俺は部室代わりにあてがわれている一階下の2年4組に足を運んでる。
 なんて言うか、俺の名前は吉川静治、高校三年生の17歳で演劇部員してます。
 別に恥ずかしがって言うこともないか?
 ああ・・・月島に誘われて入部してから1年くらいが経つのかなあ。
 退屈そうにしていた俺に月島が目をつけて、肉体労働専用の人的資源としてお声がかかったわけなんだけど、いつのまにか舞台進行の担当に祭り上げられて、インカム使ってやれ調光だ音響だなんて部員達に指示を送る役を仰せつかるようになってしまってるさ。
 うちの高校、函館山の麓の第一高校も含めて函館の高校は文化系の部活にえらく力を入れていて、演劇部は年に何度か市民会館の大ホールで高文連・・・高校文化連盟って団体の略らしいが・・・の大会に出場したりしている。
 他の文系のクラブもがんばってるよ。
 そのせいか、今の函館の高校生は体育系が今ひとつなんだよなあ。
 まあ、そういう大会で上演するには出演者以外にも大道具やら小道具やら舞台装置の運搬やらで人手がたくさんいるわけで、俺もそのための人狩りにあったっていうわけだね。
 ただ、どうせこいつを使うなら、舞台進行にっていうことにいつの間にかなってしまったわけで・・・
 それでも、でっかいホールの舞台裏でいろいろやらせてもらうっていうのはけっこうな醍醐味があって、自分でも気づかないうちに、すっかり演劇部に馴染んでしまっていたというわけだなあ。
 なんといっても、上演が終わった後には例えようのない解放感とか達成感とかがあって、今までに味わったことのない充実が感じられたんだ。
 こうした舞台で俺が関わることといったらさっき話した舞台の進行とか、あとはちょっとした小道具作ったりとかいうくらいだったんだけどね。
 それでも、舞台が終わる頃には自分勝手に満足して、部員達とささやかな打ち上げをするっていうのがたまらなく面白かったんだよ。
 もっとも、遊び抜きでの大切な演目を、毎年一度だけ市民会館の大ホールで上演するっていうお勤めがあるんだけど・・・
 つまり、それぞれの高校が、それぞれの第3学年の、ごく一部の卒業生達のために・・・っていうあれだ。
 君達のところでは、どんな演目になってるのかな?
 
 俺は別に足取りを速めるわけでもなく、のんびりと2年4組を目指して歩き続ける。
 もう何人かは集まってるかもしれない。
 今年も3人の女子が入部してくれたんで演劇部は安泰安泰。
 男子の入部は無しなんで困るって月島達はぼやいていたけど、いざという時には運の悪い奴が男装ってことで無問題だろう・・・なんて、俺は思ってる。
 彼女達の前で口には出せないけど・・・
 放課後の校舎は人気もまばらで、どことなくでっかい迷路のようにも思える。
 この高校も再建された時には、子どもの出生率も上がるだろうって算段だったんだろうけど、実際には空き教室が目立つなあ・・・
 きっと大人の皆さん、子ども作るのがやりきれないのかもしれない。
 爆撃の日から25年が経ったっていうのに、いっこうに状況は変わらないし。
 国連軍に徴兵されて我が子とさよなら・・・なんての考えるとねえ・・・俺達にしても、出征した先輩達の御見事な最後を知らされてしまうと、卒業が近づく頃には胃の辺りがきりきり痛むのかもしれない。
 在校生で年上とつき合っていたりする連中は尚更に激しく葛藤する羽目になるってなものだしね。
 などと思いを巡らしながらてくてくと歩を進め・・・2年4組の教室の前に来ると、俺は無造作にドアを開けた。
 窓からさし込んでくる夕陽の中で月島は振り返り、俺に笑顔を向ける。
 「演劇部は怠け者でいっぱい・・・」
 「まだ、だれも来てないんだ?」
 「檜山商店に買い出しに行ってるのよ」
 「総員出撃ですかあ・・・」
 「静治のぶんも頼んであるから、心配しないで良いよ」
 俺をからかうような言い方だ。
 月島優香は俺と同じクラスで演劇部の親玉。
 俺を人狩りした張本人で、けっこう性格は・・・お淑やかです。
 「お腹が減ったねえ」
 月島は制服のポケットから黄緑の紐・・・紐でいいのか?・・・を取り出して、長い髪を無造作に束ね始めた。
  あらら、たまには別な色にすればいいのになんて、心の中で呟きつつもだ。
 月島の仕草に思わずどぎまぎして落ち着かなくなった俺は、手近な椅子をたぐり寄せて、ため息を吐きながらゆっくりとした動作で腰を下ろした。
 「おじさん臭いよ」
 俺をからかいながら月島も椅子に腰掛ける。
 俺と月島は窓側の机を挟んで座り、ぼんやりとしながら夕陽に染まりかけた教室のたたずまいを眺めた。
 古くなって塗装の剥げかけた机や椅子。
 廊下側の、ひびの入った明かり取りのガラスにあてがわれた灰色のビニールテープ。
 どれもこれも年季が入った使い古しばっかりだ。
 「おじさん臭くもなるさ・・・制服着てるけど、みんなおじさんとおばさんみたいなもんだよ」
 そうぼやきながら見上げた黒板の上には半世紀前なら大問題になるような標語が、粗末な紙に筆でしたためられている。

 『一億総決起 月奪還』

 「あれって、いつ書かれたんだろうね?」
 俺の視線を追っていたらしい月島が聞いてきた。
 「そりゃあ・・・この学校が建った時でないの?」
 「ってことは・・・20年前かあ・・・」
 「そうそう、ようやく世界が一息ついてもいいかなあ・・・なんて思った頃さ」
 「そっか・・・そうだよね爆撃の日、今年で25周年」
 「・・・うん」
 「まあ・・・でも・・・」
 そこまで言いかけて、月島は口をつぐんでしまった。
 思い出させたくないことを口にしたせいなのか・・・いやいや、自分が思い出したくないことのせいなのか・・・
 まあ、俺の場合にしてみれば・・・俺の家に限らず、爆撃の日になると多くの人達が故人をしのぶものなんだ。 月で死んだ身内や知り合い達を見送った嫁さんとか旦那とか、子ども達とか親とか友達等々など・・・今年もその日の夜に、月を見上げて想いに耽るっていうわけなんだ。
 会話が途切れ、俺と月島は話しのきっかけをつかむことができず、ただ買い出しに出かけた部員達が戻るのを待っているだけになってしまった。
 でも、それでも良いんだよなあ・・・
 なんて、俺は自分に言い聞かせたりする。
 静かな時間が。
 月島と同じ時間を過ごせているということ。
 それだけでも、やっぱり俺は幸せなんだと思う。
 たとえ月島の気持ちが、未だに月へ指向しているのだとしてもだ。
 たとえ宣戦布告以前に総崩れ状態の片思いだとしてもだ。
 まだまだ・・・
 「そういえば・・・」
 唐突に月島が言う。
 「今日の部活は、いよいよお勤めの準備っていう話しなんだよ」
 「はい?」
 「その日の夜に、月を見上げて」
 「・・・あ」
 「やっぱり忘れてたあ・・・それともふりかな?」
 意味ありげな眼差しが刺さったんだけど、怒ってるって感じじゃないのが少し不思議だ。 「あぁーあ、今年もやりたいなあ・・・主役」
 「・・・・」
 さすがに俺は黙り込んでしまった。
 月島はそれが不満なようで、俺から視線を逸らし、机の上で頬杖をついた。
 「・・・・無理だよ」
 小心者の俺としては、そう言うのが精一杯ってところだろうか。
 何しろ、毎年上演されるこの演目は在校生が志願者達に手向ける別れの儀式みたいなものなんだから。
 月島は、去年の主役で満足していなければならないはずなのだから・・・・俺は思った。 ・・・・高橋先輩を送り出せたじゃないか・・・・ってね。
 「やな予感がするのよ」
 月島は不安げな目で俺を見つめている。
 「後輩達の練度についてでありますか?」
 月島の言いたいことは見当がついているけど、俺はやっぱりはぐらかせてしまう。
 「ばか言わないの」
 ああ、そんなに睨みつけないでください。
 俺は気まずすぎて視線を逸らしてしまった。
 「もうすぐ志願の募集なんだよ・・・」
 月島の不安そうな声が突き刺さってくる。
 たしかに、そんな時期が訪れようとはしている。けれど、志願を認められるのは三年生126名のうちの3割にも満たない。
 そもそも、銃後なくして軍隊なんぞは成立しない物なんだ。
 とくに人口が減ってしまった今の世界ではなおさら・・・
 だから、志願を受け入れられる者は、よほどの才覚に恵まれている者でなければならない。
 俺を見てみろよ・・・どこにそんな際だったところがあるのさ・・・って月島に言ってやりたかったんだけど・・・やっぱり言えたもんじゃない。
 「俺としては、月島の方が心配なんだけど・・・」
 どちらかと言えば、そこら辺にあふれている降下戦闘の志望よりも、月島みたいな航宙科の方がお呼びがかかりやすいっていうのに。
 「私としては、静治の方が心配なんだよ」
 「だけど、おいらは十人並みのセモード乗りでして・・・それも当然シミュレーター」
 思わず頭をかいてしまう。
 「嘘つきなさい」
 俺の態度が腹に据えかねたらしく、月島は椅子から腰をあげると俺の真正面に立ち、真剣な眼差しで俺を見据えた。
 「この前の演習の働き具合はこっちでモニターしてたんだよ。わかってるの?私は降下から回収まで『すずき』を預かってたんだからね」
 「い、いや・・・だって演習は真面目にやらないと・・・」
 「わかってるよ・・・わかっているから余計に心配なんだよ。それなのにあんたと来たら・・・」
 こ・・・今度はあんた呼ばわりですか?なんて俺はもう・・・確かに俺、セモードの扱いは人に負けない自信あるんだけど・・・あたま悪いからなあ・・・
 「それとも何?あんた、ただただ勇ましいことばっかり言ってる志願ばかと同列だって言うの?」
 「ちょ、ちょっと待ってよ」
 さすがにここまで言われると、相手が月島だからっておとなしく聞いてるわけにはいかない。俺にだっていろいろ考えてることはあるって言うのに、べつにつき合ってるってわけでもないのに、そこまで言ってくれるってか?
 うむむ、だからっていって、それをこのままの言葉で言い放つのはさすがに無茶というもので・・・俺、小心者ですから・・・どうやって真綿に包んで月島にぶつけてやろうかって思案を始めたんだが・・・
 「待てないよ・・・」
 月島の声が震えている。
 俺はそれに驚いてしまって、反撃どころじゃなくなってしまった。
 なんだか手荒い悪戯がばれておふくろに叱られてるような気分になってしまった。
 「わからないの?・・・月へ行ったら、死んじゃうんだよ・・・」
 なんなんだよ・・・って俺は思ったりした。
 俺だって、月なんかに行きたくない。
 月だけじゃない、陸海空だってごめんだし、わけらからんお頭いただいた要復興地域の派遣団での使い走りも目一杯お断りだい。
 でも・・・
 「でも・・・俺が決められることじゃないでしょう?」
 できるだけ冷静に、冷静に、月島に言い聞かせる気持でそう答えた時、教室の外からざわめいた声が聞こえて来た。
 教室のドアが開く。
 「おかえり!」
 月島は突然に態度を変えて・・・さすが演劇部・・・いつもの大人びた声で買い出し部隊をねぎらい始める。
 ・・・うむむ、何だったんだ先ほどの月島艦長殿は?・・・
 俺は合点がいかなかったぞ。
 不完全燃焼な気分で唖然としている俺のところに、大きく膨らんだビニール袋をぶら下げて突撃してくる奴らがいる。
 今年の春、入学と同時に演劇部へ入ってくれた橋本裕子と大場美佐子、川村舞子の3人組が戦利品の配布を始めていた。 
 「せんぱーい」
 ・・・ああ橋本君、今はその元気な声が癪に障る・・・
 なんてことは思っていても、やっぱり口には出せず、俺は当たり障りのない笑顔を急造して顔を向ける。
 「先輩、ちゃーんとあんパン買ってきましたよ!」
 「それと、アロエジュースもね」
 橋本も大場も、俺の好みを憶えていてくれてるのがありがたいです。
 「ずいぶん買ってきたねえ」
 「うふふふ・・・なにしろ放送局の分も買ってきてあげてますから」
 「貢ぎ物ですか?」
 「まさかあ」
 3人組が、カラカラと耳障りな声で笑う。
 「ちゃんと、お金はいただいておりますよー!」
 この3人組の中では大場がいちばん幅を効かせている。
 「ことしは放送局の皆さんが、舞台進行とか引き受けてくれるものでぇー!」
 ああ、うるさいったらありゃしない・・・どうせなら3人足して3で割ってしまえばいいのに・・・なんて、当然これも口には出せない。
 「あれ?優香言ってなかったの?」
 買い出し部隊の指揮をとってたらしい副部長の中田寿代が・・・この見かけは歩く大和撫子みたいな美少女も俺の隣のクラスで三年生だ・・・意味ありげな声色で月島に尋ねる。
 「ごめん、ちょっと忘れてた・・・」
 月島は罰が悪そうに、中田にぎこちない笑みを返した。
 ああ、今年も一波乱ありそうな気がする・・・
部長の月島優香と副部長の中田寿代は・・・双璧だと思う。
 うちの演劇部は綺麗どころだって言われてるけど、その中でもやっぱり群を抜いてる。
 例えて言うなら・・・ああ、やっぱりやめておこう。
 どっちをどう言っても角が立つような気がする。
 ただ、月島が物静かな・・・表向きは・・・感じの綺麗さだとすれば、中田は妖艶さってことなるのかもしれない。
 さっき大和撫子って言ったのと矛盾するかもしれないが。
 でもだなあ・・・なんでおんなじように髪のばしてるのかねえ?
 ・・・ああ、まさか中田まで主役やりたいなんて言い出さないだろうな・・・
 とかくこのお二人、張り合ってくれます。
 趣味から髪型から何から何まで・・・ああ、でも中田の方がちょっとだけ背が高いので月島はそれが面白くない。一方の中田は月島の小柄な体型がうらやましくて面白くないらしい。
 おまけに二人とも航宙科。
 去年の大立ち回りは、おかげさまで放送局でも伝説になってしまっていて・・・音響用の素材作ってもらう関係で演劇部と放送局は縁が深いのさ。
 あれだけは月島が勝ったって言えるのかも知れないか・・・なんて、去年の上演のことを思い出した俺は微妙に面白くなくなってしまった。
 この演目は・・・おいらはこの演目がだいっきらいなんだ・・・二年生が主役ってのが相場なんだから、絶対にそれだけは譲れない。
 俺はそう思うぞ。
 そもそもなんだってまた主役にこだわってくれるんだ?
 去年は月島の思い通りになったじゃないか。
 今度はだれのための主役なんだって言ってやりたい。
 下の部員達の中には、この演目で主役やりたいから入部したっていう子だっているんじゃないか?
 そう考えると、俺はだんだん腹が立ってきた。
 あの大馬鹿野郎。女子二人を手玉にとって、出征の時には俺に「寿代を頼むぞ」って俺に、したり顔で言いやがった大馬鹿野郎。
 ・・・まったく・・・なんだってこんなこと思い出してしまうんだか・・・
 月島は、演劇では勝っていたかもしれないが、もっと肝心なところでは中田に負けていた。 
 俺は悪霊にでも取り憑かれているような気分だった。
 ・・・ああ先輩、はやいとこ成仏していただけませんか・・・
 「セイ・・・」
 ・・・あんたのせいで演劇部は今年もイベントがいっぱいですよ・・・
 「セイっ!」
 ・・・俺は今年も板挟みじゃないか?っ!・・・
 「セイったら!」
 「あ」
 「あじゃないよ!」
 中田を始めとする3年女子は俺のことをセイって呼ぶ。
 月島以外は・・・
 「なに自分の世界に潜行してんのよ」
 呆れ顔の中田が、俺の前で仁王立ちになってる。
 「私達3年の最後の仕事が始まるんだよ」
 「う・・・わかってますとも」
 「私達が準備して、2年1年に引き継ぎして・・・」
 「あとは客席から橋本さん達の名演技を、ってなわけですね」
 ああ、作り笑顔で答える自分が情けない。
 「そうなってほしいわね・・・滞りなく・・・」
 何か含んだ言い回しで、中田は月島に視線を向ける。
 ・・・・なるほど・・・
 月島の意向は中田の知るところとなっているらしい。
 他の部員は・・・まだ知らないってところか。
 ・・・知らぬが花だなあ・・・
 やっぱり今年も一悶着起きそうなんですが・・・俺、吉田静治としては・・・こればかりは月島の味方にはなれないのだ。
「まあ、取りあえず・・・」
 微妙な空気の月島と中田の間合いを読んだ岩坂春江が、小脇に抱えていた大きな茶封筒を机に置いた。
 「去年のおさらいでもしてみましょうよ」
 さすが春江さんと、俺はいつも感心してしまう。
 俺らの同学年4組の春江さんは、うけもつ役柄がお母さん以上の年齢の場合が多いと言えば、彼女の雰囲気というか印象っていうやつだとかがわかってもらえるかな?
 実際、春江さんはべつな意味での演劇部のまとめ役って言っても差し支えがないような気がする。
 そうそう、春江さんがいたからこそ去年の演劇部は、何とか問題を凌いで来れたんだよなあってしみじみ俺はそう思うぜ。
 ああ・・・これはおいらの偏見なんですけど・・・役者さんっていう種族はどういうわけか一癖も二癖もあって自己主張が激しいような気がします。
 あ、なんで言葉使いが丁寧語なんだ?
 そもそもですねえ、感受性が強すぎるんでしょうか?え?ああ、鋭敏なのね。
 それについては月島も中田に似たようなところがあるんだよなあ。
 ああそうだ、先輩達もそうだったぞ。
 去年は俺が知ってるだけでも両の手じゃ足りないくらいのもめ事があったなあ。
 まあ、どこそこのどいつが生意気だとかいう喧嘩は思ったほど多くはなかったけど、高橋先輩をめぐる色恋沙汰の紛争が多発していたなあ。
 まあ・・・おいらも春江さん同様火消し役だったわけだ。
 「はいっ! セイちゃん」
 「あ、どもども」
 などと恐縮しつつシナリオを受け取る。
 「食べながらでいいんじゃない?」
 中田が提案すると橋本達が食料を配り始める。
 「はい、せんぱーいの大好物!」
 橋本がしてやったぞという面持ちで、俺に2個のあんパンとアロエジュースの缶を渡してくれる。
 「ありがとう」
 と俺は笑顔で答え、360円をお支払いする。
 でもだな橋本君、俺はどうせならもう1個はジャムパンのほうが良かったのだよ・・・なんて言えるわけもないんだなこれが。
 お金を受け取ると、橋本は意味ありげにくすっと笑みを浮かべた。
 な、なんだ?
 なんなんなんだ?
 「先輩、いつもあんパン」
 ・・・いや、だから・・・
 「可愛いっすね」
 「は?」
 橋本は面食らって固まってしまった俺に背を向けると他の連中の食料を配りに行ってしまった。
 ・・・なんなの、あなた?・・・
 などと思ってはみたものの、ああシナリオに目を通さなければ。
 下手したら脚色の変更はおまえがやりなさいなんてお沙汰がありそうな予感がする。
 去年のシナリオは埃の匂いがした。
 安っぽい西洋紙を束ねた懐かしい代物ってわけだな。
 なんというか・・・この演目を終えた時、先輩達は泣いていた。
 それだけじゃない。
 観客席の生徒達も目を潤ませて、これから征く先輩達の受難へ想いを馳せたというわけなんだよ。
 でもな、俺は泣かなかったぞ!
 俺は・・・高橋先輩なんかのために涙なんか流してたまるものかいっ!
 そうさ、でも俺は・・・俺には・・・
 あの時の俺の気持ちなんか、だれにもわかってもらえやしない。
 俺は、ほんとはあんな劇、ぶち壊しにしてやりたかった。
 それなのに舞台進行の大役だ。
 それに、俺には違えることのできない約束もあった。
 だから俺は。
 冗談じゃなかった。
 でも・・・でも・・でも、月島が主役だったんだ、俺は・・・約束した・・・だから、一生懸命やったんだよ。
 ああ、いかんいかん、気持を落ち着けなければ。
 「その日の夜に、月を見上げて」
 この演目は函館の高校独自の演目になっている。
 設定は自由。
 主役も男女問わず。
 でも、題名はどれも「その日の夜に、月を見上げて」
 その時期日本全国の高校がこの演目に似た劇を上演する。
 題名はいろいろだけどね。
 それでも、その意義だけは変わらない。
 出征して征く先輩達のためだけではなく、失われた32億の犠牲者達を忘れはしないっていう誓いの儀式でもあるのさ。
 だから、俺達にとっての「その日の夜に、月を見上げて」は、見る者にとっても、作る者にとっても、忘れられない思い出になるってことなんだろうか。
 うん、やっぱり、そういうことになるのかもしれない。
 今は夏の終わり。
 函館は短い秋を迎えつつある。
 俺だって月島の言うとおりに志願ってことになってしまうかも知れないけど・・・だけど、ここで月島達とかかわったって思い出を持てることは悪いことじゃないのかもしれない。
 三年生は、出征しようがしまいが、思い出をもらってばいば~い。
 だから、俺達の仕事は、先輩達へのはなむけと同時に後輩達が「その日の夜に、月を見上げて」を正しく受け継いでくれるように道筋をたててやることなんじゃないのか?
 そのためにみんな、心中抱くいろいろな思いを押し殺し、艱難辛苦を乗り越えて上演をより良きものへと導くべく日々これ鍛錬ですって高校生活を送っているんじゃないのか?
 それなのに月島は・・・
 これは何気ないようで、じつは大問題なんだよ。
 「・・・はあ~・・・」
 俺はため息を吐くとシナリオを机の上に置いた。
 「どうしたんです先輩?」
 あ、橋本君、いつの間に隣に座ってたんだ君は?
 「読み疲れかも・・・」
 「ほんとはお腹が減って集中できないんじゃないんですか?」
 橋本は左の手に自分の顔ほどもある三色パンを持っていた。
 あれだよ。
 イチゴジャムとクリームとあんの入っているヤツだよ。
 秘かに、俺も食べたかったアイテムじゃないか!
 「食べてないの先輩だけですよ」
 あ?
 そう言われて辺りを見渡すと、他の連中はシナリオそっちのけでパンやら弁当やらおにぎりやらを頬ばり、ビールでも一気飲みするかのような勢いで缶ジュースやらペットボトルやらをあおっている。
 ああ、俺が演劇部に入るって言った時に・・・・おまえどうすんのよ、綺麗どころ満載の女の園じゃねえのよ・・・ってうらやましがってくれた連中に、この飢えたゾンビがたむろってるみたいな光景を見せてやりたい。
 血気盛んな女子高生集団。
 まああれだ、つまらん幻想抱いてこちらに立ち寄る男子共には、女子という生物の未知なる生態を垣間見る良い機会になるはずだなこりゃあ。
 俺はとっくの昔に、免疫ができちゃったけど、最初はさすがに言葉を失っちゃったぜ。
 今はすでに平然としていられるおいらはそれなりに、環境に順応する能力に優れているのかもしれない、なんちゃって。
  部活・・・って言ってもいいのかどうか疑わしい部活だったけど・・・・それが終わったのはちょうど時計が7時を回ったところだった。
 橋本達が帰るのを見送ったあと、俺は高校の前の坂を下り始めた。
 ふと立ち止まり、街の夜景を見渡す。
 残念な話しだけれど、今の函館には昔のような美しい夜景は存在していない。
 昔なら、この坂からもあの美しくくびれ、扇状に広がる夜景を拝むことができていたのに。
 2044年の、爆撃の結果押し寄せた最大波高40メートルに達しようかって大津波が全部さらっていってしまったからだ。
 そして、復元されたここ元町の風景は別として、それ以外の市街地はすべてそれ以前の街並みを失い、いびつな護岸工事のおかげでかつての扇状に広がる地形を失ってしまった。
 現在の函館は、その主要な大部分を内陸部に移し、かつての市街地は函館湾側が軍の管轄地に、津軽海峡側は居住区として再建された。
 函館湾側は大型艦の入港が可能なように浚渫されて港湾部が拡大され、昔のように綺麗な曲線美の地形はいびつなものに変わってしまっている。
 極めつけは函館山から当別までのびる海上の巨大な防波水門、そして津軽海峡側には、遠くは恵山までのびる大堤防と、その基部を支える大突堤の衝突防止灯やら街灯やらが不規則な光源の連なりを作ってしまっている。
 俺は昔の夜景の記録映像を見たことがあるんだけどなあ。
 今の函館は、拡大されたその規模故に光源は多いけど、情緒のかけらもないただの軍港都市なってしまった。
 ご時世がご時世だから致し方ないけど、やっぱり激しく寂しいものだね。
 俺は校舎の脇にある駐輪所へ歩き始めた。
 俺の家は学校からは自転車で20分くらい。 旧市街地の外れで軍管区の境界付近です。
 かなり以前に建てられた軍属用の宅地なんだけど、まあ軍の功労者の未亡人って立場でおふくろは借りることができたらしいんだなこれが。
 俺は自転車の鍵を外すと前についてる籠に鞄を放り込んだ。
 ・・・今日も疲れたなあ・・・
 ああ、ため息が出てしまう。
 はてさて、今回の「その日の夜に、月を見上げて」は、どれだけの悶着の果てに産声を上げることになるんだろうか。
 心情としてなら俺は、月島に主役をやらせてやりたい。
 たぶん・・・航宙科の中で志願の対象になるのは月島か中田だ。
 あの二人がいちばん練習艦「すずき」を上手く操艦できている。
 そうだからこそ月島は、自分の中の何かに踏ん切りをつけるために、もう一度主役をやりたいって思っているのかもしれないから。
 でもだな、それをやらせてしまったら次の代の橋本達が正しい形で「その日の夜に、月を見上げて」を引き継いでいけなくなるじゃないか。
 もう一度ため息を吐いてしまった。
 これだけは、いくら相手が月島であっても俺は味方になれない。ということは、俺は月島に嫌われてしまう・・・ような気がする。
 ・・・そうさ、でも、これだけは絶対に譲れない・・・
 俺は相当どころではない崖っぷちに立たされてるような気がした。

 俺は自転車を漕ぎだした。
 石畳の坂を下って行くと、見覚えのある人影を見つけてしまった。
 「月島?」
 自転車を止め、無意識に声をかけてしまったが、果たしてその人影は月島優香だった。
 「静治?」
 月島は、なぜかほっとしたような顔で俺に笑いかけた。
 「月島、とっくに帰ってたんじゃないの?」
 「寄り道してた」
 「うう・・辺りは暗いんだぞ、物騒なんだぞ」
 「昨日、海軍の船が入ったから?」
 「そ・・そういうわけじゃないけどさ・・・風邪ひいちゃうよ」
 「ねえ・・」
 「はい?」
 ・・・な、なんなんだ、この間の抜けたようなやりとりは・・・
 「月を見てたんだよ・・・」
 独り言のように月島がつぶやいた。
 「月?」
 「今日は満月なんだよ」
 月島が夜の空を指さす。
 俺はつられて仰いでみると・・・
 なるほど、今宵は満月。
 ・・・月島が物思いに耽りたくなるってわけだ・・・
 「静治・・・あそこへ行ったら死んじゃうんだよ」
 月島は、体中から力が抜けてしまってるような、まるで幽霊のような眼差しで俺を凝視している。
 とても、さっきまで部活やってた月島とは思えない影の薄さだった。
 「静治まで私を置いてくのかなあ・・・」
 ・・・ああ、までですか・・・
 なんて、ちょっとばかり面白くない気分になってしまったんだけど、端役のおいらとしては仕方がない立場というところなのかな。
 「またそれを言う」
 「だって気になるじゃないの」
 「・・・・」
 「なんで黙っちゃうのさ」
 お願いですからそんなに責め立てないでくださいと、俺は心の中で哀願した。
 だってさ、迂闊なこと喋られないじゃないか。絶対に話題が先輩の話に傾いてしまうじゃないか。 
 「静治はさ・・・気を使いすぎるんだよね」
 俺を見つめる月島の顔が恐いです。
 「私がいつでも月で骨になった馬鹿野郎のことばっかり考えてるって思ってるんでしょう?」
 「い、いや、決してそんなことは・・・」
  ・・・え?・・・今なんて言ったんだ?・・・

 俺は自分の耳を疑ってしまった。
 月島は先輩のことを言ってるのか? 
 「出てるよ顔に。かかわりたくないって顔してるじゃないのよ」
 「だ・・・だって・・・」
 俺は戸惑い口ごもり・・・ああ、なんだってこんな街中で月島にからまれてんだ俺は・・・なんで気の利いたセリフのひとつも浮かんでこないんだ俺は・・・
 「静治も大馬鹿野郎だよ!」
 月島は右手を大きく掲げると、思いっきり俺の頬に平手を喰らわせた。