ローリング・ストーンズ野郎の雑記 -70ページ目
ローリング・ストーンズ野郎の雑記

悲劇のなんちゃらかんちゃら。

といった安易な形容で奉ってはいけないのだけれども、一年が過ぎた今でも、写真の女性には胸を打たれます。
プーケット大津波の時にも、見ず知らずの幼児たちを救うために結果的には自己を犠牲にしたオジサンがいました(ニュースソースはもう消えてます)

↓は昨日のバンコク。
イベント関係者のいちいち「ツナミ」「ツナミ」「ツナミ」の連呼がヤヤ気になったものの、慰霊祭も厳かに執り行なわれました。

$ローリング・ストーンズ野郎の雑記

ローリング・ストーンズ野郎の雑記

キングレコード創立80年

ウィキペディアによると講談社の前身会社のレコード部として1931年に発足したのだそうですが、所属歌手や元所属歌手一覧をみてると一部にものすごい派手さがありながらも、なかなかシブメというか、地道に続いているようですね。
昨年再び脚光を浴びた、さとう宗幸の「青葉城恋唄」は母親の命令で学校帰りに買いに行った記憶があるけれども、一世を風靡したといわれている横浜銀蝿や弟子の嶋大輔あたりは僕らのまわりではジョークの対象でしかなかったなァ。

しかし、キングといえばナンといっても、僕が初めて買ったローリング・ストーンズのアルバム「アフターマス」が、日本ポリドールに移行する直前のキングレコード版でした。
僕が買ったヤツは年代的にすでに英国オリジナルのアートワークだったので、上の写真は、近年発売された紙ジャケボックスのオマケについてた、日本国内初版を再現したデフジャケ類。

にしても、そういう時代だったとはいえ、ファーストアルバムの帯には泣けてきますね。


昨年6月に突然の脳疾患でヴェジテーティブ状態のまま半年以上が経過した知人。

<回復の見込みがない患者さんは退院してください>という現実問題に、高額私立病院から公立病院を経て、現在は介護施設に入居中。
あくび、目の開閉は可能でも、視点があるようには見えない。

しかし、このオッサンになんでこんな有能な女性秘書がいるものなか今も不思議で仕方がないのだけれども、英語ネイティヴ、アラビア語も解する25歳の美人秘書が、

「ギースさんとかの声、わかってますから、話しかけてみてください」

というのだから驚いた。
以前、音大卒の中国人の奥さんに私立病院のICU内で「エリモミサキを歌ってあげてください」と言われるままアカペラで歌おうとしたら看護婦さんに「ツバが飛びますから」と注意された苦い経験がありますが、昨年6月来、ほとんど毎日看病している秘書サンが今さら見舞い客の関心をひいても仕方ないのだろうから、

「オッサン、昔の未払い給料、忘れてないでしょうね」

といった殺伐とした語りかけは封印して、来月日本から友人が見舞いにくることを告げると、目を閉じて涙を流す。
それが感情の涙なのか、乾いた瞳を潤す単なる生体反応なのか、美人秘書が「今の話がわかったら、目をあけてください」と話しかけると、目をひらく。

以前、ブラックジャックのマンガで植物状態の人間が不規則呼吸を暗号にして意志を伝えるデキスギたエピソードがあったのを思い出したのだけれども、周りの声がわかってて一番シンドイのはオッサン当人なんでしょうね。

ローリング・ストーンズ野郎の雑記
ローリング・ストーンズ野郎の雑記

「ギースさんはいろんなことやってるんですねえ」

と半ば感心、半ば呆れられていますが、ギースの友人知人もいろんなことをやって糊口をしのいでます。
上の写真は、僕が自室で草鞋どころか下駄のようなビフテキをジュージュー焼いてエツに入ってマス。

の図ではなく、友人グループのビジネス構想のお手伝い。
吉野家、すき家の低価格商戦が展開されている和牛フィールドを切りひらくべく、日本の地方名産牛を導入するにあたって、空港からバンコク都心部への通り道にある僕の部屋でミッドナイトの試食会。

しかし、写真はほんの一部で、バケツ5杯分のビーフには腰をぬかしかけました。
10年前ならともかく、手をつけられなかった分は他の方々へ。

黙って食べてればいいものを60円から100円の屋台メシを美味いだのマズイだのと騒いでるガイジンさんの存在はむかしからですが、ランチに1,000円払えるタイ人さんが確実に増えてる現在、次の試食会はタイの人がメインということで。
ローリング・ストーンズ野郎の雑記

この写真を撮影した数時間後に、日本では大変なことが起きた昨年の春先。

タイ国政府観光庁が当時のタイ閣議に「被災した日本人のために、査証不要で3ヶ月、タイに滞在できるようにしてください」と諮って、「じゃあ、そうしましょう」ということになったのだけれども、政権交代によってその話も実施前に立ち消えに。
実際問題としては、

・被災した家屋や職場をそのまま放置して、「自分さえよければ」の考えでタイに来る日本人がいるのだろうか

との懐疑的な見解もありましたが、時間の経過と共に、それまでの日本の生活を整理して、親類が起業していたり、配偶者の家族が暮らすタイに移ってきた方々もいます。
驚天動地の激震からようやく我にかえったところにアッというまに津波がやってきて同僚のほとんどがいなくなってしまった、という体験談は、きくだに身がひきさかれる想いです。

極寒の中、濡れた衣類のまま山中をさまよい、三日目の夜にオニギリ3つを配給された30代後半の男性は、「その味はもう忘れたけど、食べ物があんなにありがたいと感じたことはなかったですよ」と戦国時代の落ち武者を彷彿させるような回想をしてます。

そんな方々が近郊都市や東京・大阪ではなく、当面の新転地としてバンコクを選んだのも何かのエンだとおもって、できるだけのことは応援したいものです。
って、他人様を応援するほど僕の生活が盤石してるわけでもないのですが。