
拡大する一方の反政府デモを取材中の遊軍ジャーナリストの長井さんが命を落としてしまった。
ミャンマーの前首都ヤンゴンからのニュース映像は見る人によっては、「東南アジアの北朝鮮」のイメージを増大させるそうですが、実際には1983年の韓国閣僚大量爆殺事件以来、ミャンマーと北朝鮮の間に国交はありません。
むしろ、どこでもかしこでもアウンサンスーチーの肖像を掲げる人々の姿に、僕は北朝鮮的なモノを感じてしまう。
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■国軍、ミャンマー在住タイ人の緊急避難準備 (「バンコク週報」9月27日)
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■ミャンマー治安警察、デモ隊にロケット弾 (「バンコク週報」9月27日)
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日本とビルマの歴史は僕が解説するところではないけれど、昔も今も「ビルマ暗黒時代の独裁者」として知られている故ネ・ウィン元大統領や、「独立建国の父」こと故アウンサン将軍らが組織する独立義勇軍もとい南機関の面々が太平洋戦争の末期、日本の敗戦が濃厚になるやいなや、背中から襲いかかってきた史実はあまり知られていません。
そんなウラギリ集団に対する恨み辛みの憎悪などよりも、銃火、疫痢、飢餓の中をほうほうの体で「死にたくない、妻に会いたい、子供に会いたい」と敗走する日本兵を市井のビルマ人たちが命を賭して救済した話はあちらこちらに残っています。
「ビルマの竪琴」はもちろんのこと、大衆小説「犬神家の一族」の中に「ビルマ戦線で云々」というくだりが出てくるあたりも、戦後の日本人のビルマ観を端的に現しているのではなかろうか。
戦後が終わっても、インパール作戦 の数少ない生還者でもあった、京都の女性用肌着メーカー大手の社長は「ビルマ」ときいただけで目頭を熱くしては、民間レベルでのミャンマー復興に尽力していました。
また、その社長ほどの社会的地位はなかったけれど、ビルマ戦線体験者たちが東京の駒込に集まり、若い在日ミャンマー人たちの身の回りの世話していたのは、ともに1990年ごろのお話です。
そうした日本人にとっては、「民主化を支持するためにビルマ」だろうが、「軍事政権を容認するためにミャンマー」だろうが、「ビルマとは帝国主義時代の征服者が命名した地名であって、本来はミャンマーらしい」だろうが、国名の呼び方などどうでもいいことだったので、僕もそれにならって、ミャンマー、ビルマを混在させながら、90年代後半のミャンマーに頻繁に出入りしていました。
僕はインパール街道の死線をさまよった世代ではありませんが、今でいうところのNGO時代にイヤ~な先輩格同僚からネチネチといびられた時に僕が足摺岬の俊寛にならずにすんだのは、在タイのミャンマー人たちのおかげでした。
スーチー軟禁解放による経済制裁緩和後、日本企業の先発隊としてヤンゴン、マンダレーでビルマ人の嗜好を調べていた僕は、自称NGOの方々から「中国傀儡ミャンマー軍事政権のガイジン犬」みたいな云われようもしたけれど、犬が好きな人々なら絶対にそういう言い方はしないのではないだろうか、とヒトゴトのように思ったものです。
現実には、軍政関係者からにらまれることのほうが多かったんですけどね。