六地蔵('19.12.18)
引き続き、大善寺。
近づくと、正面向かって左が六地蔵堂、右が千手観音堂だった。
大善寺は705年(慶雲2年)、藤原鎌足の子、定慧が創建したと伝わる。
地蔵堂の地蔵菩薩立像(重要文化財)は、852年(仁寿2年)に小野篁(おののたかむら)が作ったとされる。
小野篁は実在の人物だが、京都・東山の六道珍皇寺にある井戸を通って、この世とあの世を行き来できたという伝説がある。
あの世では閻魔大王のもとで役人をしていたとされる。
大善寺の説明板によると、篁は熱病で倒れた際にあの世を見て、地獄で苦しむ人々を救う地蔵菩薩に出会った。
地蔵菩薩は篁に、
「六道を巡って、縁のある人を救っているが、縁のない人を救えないのが残念だ。どうか地獄の苦しさと、この地蔵のことを人々に知らしめてほしい」と頼む。
篁は回復後、桜の木から6体の地蔵菩薩像を刻んで、この寺に納めたそうだ。
1157年(保元2年)、後白河天皇の勅命を受けた平清盛が、西光に命じて、京都の街道の入口6ヶ所のうち、ここを除く5ヶ所に六角堂を建てさせ、それぞれにこの大善寺の地蔵菩薩像を1体ずつ安置した。
その後、この6ヶ所を回る「六地蔵巡り」が行なわれるようになる。
(なお、西光は後に清盛と対立し、平家打倒の「鹿ケ谷の陰謀」の首謀者とされて殺された人物。
もっとも、保元2年の時点では、まだ出家してなかったはずだが……。
ただし、間に入ったのが清盛ではなく、後白河天皇の側近の信西だったら、西光は信西の家臣なので、ありえなくはないかもしれない)
鐘楼は東福門院(徳川秀忠の娘で、後水尾天皇の中宮)が、安産祈願成就のお礼として寄進したもの。
(……にしては建造年が1665年(寛文5年)で、東福門院の子供たちが産まれてから30年近く経っている)
お地蔵様にお参り。
隣の観音様にも。
右手にある、工事中の建物が本堂だった。
外から参拝。
大善寺は浄土宗で、御本尊は阿弥陀如来。
先の事件で亡くなられた方々のご冥福と、負傷された方々の回復を祈った。
本堂の前に、小さくてかわいらしい六地蔵様。
大善寺を後にする。
入口に掲げられていた書。
「渡し船ありとも知らで過ぎにけん
乗れと教うる声なかりせば」
道をさらに先へ進み、奈良線の線路をくぐるとすぐ、昨日のイズミヤに出た。
また2階のプレイランドに行き、「太鼓の達人14」をプレイする。
昨日と同じ3曲。
「止マレ!」
「もってけ!セーラーふく」
「ハレ晴レユカイ」を、ふつうモードでクリア。
(ゲーム路銀 ¥1,940-¥100+¥300=¥2,140)
雨がやんだ。地下鉄の六地蔵駅へ。
次回のスタート地点まで進んで、今回の旅は終了としよう。
午後1時22分発の太秦天神川行きに乗る。
1時26分、2つ先の醍醐駅で降りた。
(ゲーム路銀 ¥2,140-¥220=¥1,920)
車内アナウンスのイントネーションは、「DAIGO」や「大悟」ではなく、「第五」みたいに平板。
京都市観光協会 京都府観光連盟
JRおでかけネット(JR西日本) 京阪電気鉄道 京都市交通局
※旅のマップはこちら。
※これ以前の「日本縦断ゲーセン紀行」はこちら。
・第235回 六地蔵で祈る(六地蔵→醍醐)
・第234回 遂に大津から京都へ(びわ湖浜大津→大津→山科→六地蔵)
・第233回以前
・六地蔵~山科(第234回~)
・大津(第224回~第234回)
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