唐橋前('19.2.27)

 

午後3時53分、瀬田の唐橋を渡り切った。

 

唐橋で起こった歴史上の戦いを列挙した案内板が、近くにあった。

672年(天武天皇元年)、壬申の乱で大友皇子が橋板を外すが、大海人皇子が橋を突破して大津宮に攻め込み、大友皇子を破る。

764年(天平宝字8年)、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)。
宇治から近江に向かった仲麻呂だが、吉備真備の軍勢が橋を焼いたため渡れなかった。
仲麻呂は越前を目指すが、愛発関(あらちのせき)を越えられず、琵琶湖西岸で敗れた。

10世紀頃、藤原秀郷(俵藤太)が橋の上で大蛇を踏んづける。

1183年(寿永2年)、木曽義仲が平氏と戦って勝利。平氏は京を脱出する。
しかし翌年、源範頼・義経に攻められ、この橋の近くの粟津で討ち死にする。

1221年(承久3年)の承久の乱では、鎌倉幕府軍が渡河に成功し、後鳥羽上皇軍を破る。

1582年(天正10年)、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀が安土城を目指すが、瀬田城主の山岡景隆が橋を落としたため、3日間遅延した。

これらの出来事の中で、藤原秀郷の話だけ全く毛色が違う。
橋に大蛇が横たわっていて、人々が渡れずに困っていたのだが、秀郷は恐れることなくその蛇を踏みつけて渡っていった。
すると大蛇は老人に姿を変え、秀郷の勇気を見込んで、凶暴な大ムカデを倒してほしいと懇願した。秀郷は快諾する。

大ムカデは、三上山(近江富士)に7回り半も巻きつくような怪物だったが、秀郷は見事これを矢で仕留める。
老人はお礼に秀郷を、橋の下の竜宮に招待し、一生かかっても食べきれないほどの米俵を贈ったという。

(以上、唐橋の中の島にあった掲示板の解説に基づいてまとめた。「大蛇は老人ではなく若い娘になった」などの異説もある)

大ムカデ退治という伝説的な話よりも、壬申の乱とか仲麻呂の乱とかの方が、古い時代に起こっていることが不思議。

 

橋のたもとにある雲住寺。藤原秀郷をまつる。
ドールハウス並みに小さな百足(むかで)供養堂と、虫塚があった。

 

隣の龍王宮秀郷社では、秀郷(俵藤太)と、乙姫をまつる。
乙姫様をまつっているということは、やはり大蛇は老人じゃなくて、若い娘さんだったのか?

午後4時5分。さらに東へ進み、近江国一宮・建部大社を目指す……はずが、一度間違って南へ行ってしまったので仕切り直し。
瀬田城址碑が建っていた。

4時14分、唐橋のたもとから再スタート。5分で一の鳥居に到着。

 

石灯籠の並ぶ中をさらに歩いて、左にある二の鳥居をくぐる。

 

祭神は日本武尊。
参道に並ぶ、ヤマトタケルの生涯を描いた絵がかっこいい。
建部大社のサイトでも見ることができる)

 

建部(たけべ)大社は景行天皇46年、日本武尊の御妃の、布多遅比売命(ふたじひめのみこと)により創建。
当地に移ったのが白鳳4年(675年)。

 

神門をくぐる。

 

参拝。この拝殿の奥に、日本武尊をまつる本殿と、大己貴命(おおなむちのみこと)をまつる権殿(ごんでん)がある。

拝殿の前に立つ三本杉は、天平勝宝7年(755年)、権殿に大己貴命を勧請したとき、一夜にして成長したと伝わる。

左右に4社ずつ、計8社の小さなお社が並ぶ。
上座4社には日本武尊の家族(両親である景行天皇と皇后、御妃と御子)、下座4社には家臣がまつられている。

末社がほかにもあるが、現在午後4時半。
もう閉まるようなので、回る時間がない。

大野神社は、建部大社が当地に遷座される前からまつられていた地主神で、縁結びの御利益があるという。

 

でも時間がないので、鳥居の手前からお参りするにとどまった。
今年も良縁は遠そうだ。

 

勝守をお受けしたので、せめて仕事面で勝ち運がついてくれれば。
1160年(永暦元年)、源頼朝が平家に敗れて伊豆へ流される際、ここで源氏再興を祈願したそうだ。
頼朝のように、絶望的な状況からの起死回生が起こってほしい。
(現在、仕事で大コケした上に、体調不良を起こしています)

建部大社

 

びわ湖大津観光協会  びわこビジターズビューロー(滋賀県)
JRおでかけネット(JR西日本)  京阪電気鉄道

 

※旅のマップはこちら

 

※これ以前の「日本縦断ゲーセン紀行」はこちら。
第225回 石山寺と瀬田の唐橋(石山寺→唐橋前→石山→膳所)
第224回 瀬田川を渡る(瀬田→石山→石山寺)
第223回以前


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