レコード芸術1974年12月号 4 | geezenstacの森

geezenstacの森

音楽に映画たまに美術、そして読書三昧のブログです

レコード芸術

1974年12月号

4

 

 海外音楽評論の記事です。まあ、謳っているのが「音楽評論」であって「レコード評論」ではないところがこの特集の視点なんでしょう。そんなことで、グールドに続いて取り上げられているのはホロヴィッツです。こちらは1970年代になってなお矍鑠として録音を続けたホロヴィっの足跡を辿るような評論になっています。

 

 

 もう一つの記事はこの当時クリーヴランド管弦楽団のシェフに収まっていたロリン・マゼールに関する記事です。これはマゼールがハイ・フィデリティ誌に語った内容ということで、興味深いものがあります。曰く、地震のレコーディングに至るまでは他人の演奏したレコードは聴かないが、、いざ聴くと自信のアプローチとの違いと多様性に驚くといったことが書かれています。そして、ステレオ録音が最良だとはとても思えないで、愛聴盤はモノラル時代にあるとも述べています。決して自身の演奏を吹聴する出なく、謙虚に他の指揮者の演奏をたたえる姿勢はこの時期変貌を遂げようとしていたマゼールの心情を垣間見ることができます。

 

 

 さて、本来のレコード芸術の形である一つのレコードを取り上げて複数の批評家の視点でそれを評価するとどうなのかという記事が下の記事です。のちにレコード芸術は最終形態として二人の批評家による評価を採用し、最終的にその二人の評価が推薦という形で一致した場合、特選版という形で掲載していきます。そういう流れの原点田リエル記事がこのアウフマン氏の記事ではないでしょうか。ここではショルティの「コシ・ファン・トゥッテ」とエッシェンバッハ/小沢のベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」が取り上げられています。

 

 

 上の記事ではエッシェンバッハはピアニストとしての立場でレコーディングしていますが、丁度このころから彼は指揮者としても活動を始めています。下は彼が東京都響を指揮者として降るために来日した折のインタビューです。もともと指揮者になりたかったという話から著名な指揮者と共演を重ねながら現場で指揮の技術を学んでいる様子がうかがえます。その中で一番影響を受けたのがジョージ・セルであったという話は現在の彼の指揮したものを聴くにつけちょっと?が付きますが、まあ、それが彼の個性人でしょう。このインタビューでのエッシェンバッハの発言は羅いささか彼のイメージとは違うもので、そっちの方が興味深い内容になっています。

 

 

 コロムビアは、もうスプラフォンしかメインレーベルはありませんでした。エラートを抱えていた時代はスプラフォンのバロック物はほとんど発売されませんでしたが、ここにきてそれをカバーするかのようにこのミラン・ムンツリンゲル/アルス・レディヴィヴァの演奏を投入してきました。小生は米CBSの廉価レーベルとしてこのスプラフォンを発売していたクロスロードというレーベルを通じてこのムンツリンゲルは知っていました。ですから、何をいまさらという感じでこの広告を眺めていたものです。

 

 

 コロムビアの一つの生命線はこのオイロディスク経由による東独シャルブラッテンの録音を発売できたことでした。ここではザンデルリンクのシベリウスとアンネ・ローゼシュミットの/マズアのモーツァルトのピアノ協奏曲の全曲発売が目玉になっていました。ここでは取り上げていませんが先に紹介しているピリスのモーツァルトのピアノソナタ全集と合わせて大々的にセールスしていました。この年、「ベルリン音楽祭」が開催されており、それも追い風になっていました。ザンデルリンクのシベリウスは好きな演奏で彼のベートーヴェンの交響曲全集とともに愛聴盤になっています。

 

 

 1000円盤がなくなって、落ち着いたところでこのエオリアン100シリーズが1500円盤でここで投入されました。多分「ディスコフィル・フランセ」原盤だと思われますが、カール・リステンパルトの演奏が大量に投入されています。この指揮者はアメリカの「ノンサッチ」レーベルからかなり発売されていて、小生は幸そちらでなじんでいました。パイヤールとミュンヒンガーの中間を良く演奏でなかなか味があります。ということで、すでに所有しているものが多かったのでこのシリーズには手を出しませんでした。ただ、こうして眺めていると魅力的な録音が投入されているのがわかります。

 

 

 こちらは特器のエテルナレーベルの広告です。古いアーベントロートの録音を引っ張り出してきてリリースしています。小生のような新しいクラシックファンにはとんとなじみのない指揮者でした。

 

 

 当時はバロックブームということもあり各社が古楽のアーティストを前面に押し出し、リリースを掛けていました。ヘルムート・コッホもその一人でベルリン音楽祭で来日ということもあり、2ページぶち抜きで広告を打っています。

 

 

 東独シャルブラッテンは声楽のソースが豊富だったことがうかがい知れます。ただ、西側との共同製作が多く、なかなかストレートに新譜が出せなかったことがうかがわれます。

 

 

続きます。