レコード芸術1972年9月号
その4
ソニーで売れたのはグールドだけだったんでしょうか。トップはグールドのモーツァルトのピアノソナタ第3集が発売されています。ここでは第10番が異例の速さで演奏されていることを告知
し、グールドは11:15、リリー・クラウス18:26、エッシェンバッハ18:56だそうです。グールドの旧録音も16:24ですから、もともと早いようですな。
両開きはSQ4チャンネルのレコードを取り上げています。しかしこの4チャンネルブーム、方式が統一できなかったこともあり、急速にユーザーにはそっぽを向かれ急速に廃れていきます。この月はソニーだけが孤軍奮闘しているのがわかります。
こちらのマーラーも見開き広告です。もう、バーンスタインのマーラーは交響曲全集も既に出ていますからブーレーズの10番と周辺の録音でお茶を濁しています。
びっくりしたのがバーンスタイン/ウィーンフィルの「薔薇の騎士」がソニーから出ていたことと、その録音のプロデュースをジョン・カルショーが行なっていたということです。まあ、カルショーは1967年にデッカを去り、BBC テレビジョンの音楽番組の責任者に転出していますからありといえばありですけどね。また、オーマンティの「ロマンティック」がひっそりと発売されています。この時は新録音だったんですなぁ。手元には廉価版になってからのレコードが残っています。
見開き告知パート3はソニーの代名詞にもなった「音のカタログ」です。これはその第2巻が完成したという告知です。一番最初の音のカタログです。メディアはレコードからカセット、CD、そしてMDでも用意されました。小生も手に入れたものです。まあ、これは有料サンプラーとして用意されたもので、1巻は500円、2神道寺で700円という価格がついていました。1極当たり1分半というのが標準でした。当時はよく友人とクラシックのイントロクイズに使用したものです。
さて、最後に取り上げるのはトリオ・レコードです。昔はクラシックのレコードも発売していたんです。多分アマデオ原盤ではないかと思われます。この当時はまだ、シャルラン・レコードは契約していなかったのでしょう。
これでレコードメーカーの広告は一通り取り上げましたが、実際はレコ芸と言いながらオーディオメーカーの広告の方が多いというのが現実でした。クラシックとジャズがオーディオの成長を牽引していたんですなぁ。
さて、肝心の記事ですが、この号で目を引いたのが世界の指揮者という連載です。この号では当時は幻の指揮者と言われていたムラヴィンスキーを取り上げています。
第2回目ですが、ちなみに第1回に取り上げられていたのは「クレンペラー」でした。そのムラヴィンスキーは1958年に第1回の大阪国際フェスティバルに参加するために来日が予定されていたのですが、急病でキャンセルになっています。変わって来日したのはアレクサンドル・ガウクでした。そして、1970年の大阪万国博の時も来日が予定されていたのですが、この時も直前に病気になり来日していません。この時はアルヴィド・ヤンソンスやドミトリエフが指揮しています。ムラヴィンスキーが初来日したのは1973年で、以降1975年、1977年 、1979年と1年おきに来日公演を行っています。
さて、もう一つの特集記事は出版社のレコード・ブームでした。この当時筑摩書房、講談社、中央公論社、そして平凡社が各レコードメーカーと組んで全集の覇を競っていました。
これは第2ラウンドで、1968年に河出書房と講談社が第1ラウンドを戦っていました。この時は河出はビクター、新世界原盤、講談社はロンドン、デッカ原盤を使用していました。
この第2ラウンドは各社が少し工夫を凝らしています。筑摩書房は「ルネッサンス・バロックの音楽」と題してアルヒーフ原盤、講談社は「世界音楽全集/グラモフォンの名曲」と題してグラモフォン原盤、中央公論社は「世界の名曲」シリーズでフィリップス原盤、そして平凡社は変則の25センチLPを投入して「ファブリ世界名曲集」60巻をコロムビアが提供していました。この平凡社は680円という低価格で攻めていますが、VOXやスプラフォンの音源を使っていました。
この第2ラウンド小生はカラヤンのパネル欲しさに第1回発売文だけ買いました。写真のカラヤンのパネルは未だに部屋に飾ってあります。あとはレコード本位に考えていっさい手を出しませんでした。本は再販指定で、低下しか売りませんからねぇ。レコードは当時2割引販売の店を開拓していましたからせっせとそのルートを利用しました。
さて、この号に匿名の記事でこんなのが掲載されていました。
そう、時は日本フィル事件のの真っ最中でした。ことの流れはこうです。
1972年3月、日本フィルハーモニー交響楽団の運営会社のフジテレビと文化放送が楽団に対して放送契約の打ち切りを通告し、同年6月に両社はオーケストラの解散と楽団員全員の解雇を通告して放送料支払いを打ち切り財団も解散しました。この争議を日フィル解散争議といいます。
1971年5月に日本フィルハーモニー交響楽団労働組合が結成され、同年12月に同労組が日本音楽史上初の全面ストライキを実行したことが遠因とされています。フジサンケイグループに共産党系の労働組合は絶対に許さないという、グループ内の政治的判断もあったようです。
1972年6月30日、財団法人の解散に伴い日本フィルハーモニー交響楽団は分裂し、労働組合系の楽団員の3分の2が残留、残りの3分の1は政治的な問題に嫌悪感を示し、斎藤英雄や小澤征爾を中心にして新日本フィルを設立しました。当時、社会問題になりました。
1984年、楽団に対してフジテレビと文化放送が2億3千万円の解決金を支払い、日フィル労組が財団解散を承認して「日フィル争議」は和解しました。その後、日フィルは財団法人化して、再出発します。それが現在でも続く日本フィルハーモニー管弦楽団です。
とまあ、こういう事件です。フジサンケイグループというのは御用組合しかない組織で1、958年以降新聞労連からも脱退させ、徹底的に御用組合化して社内から批判勢力を一掃。紙面も「政府・自民党の宣伝紙」と揶揄されるような内容に激変し今に至っています。当然潰しにかかることは明白な事態なんですが、この記事はそういう背景にはいっさい言及していないという情けない記事です。日本フィルがフジ・サンケイグループのオーケストラであったことが悲劇の始まりだったんでしょうなぁ。