ワンデイトリップ 飛騨高山 2
高山陣屋1
駅前の土産物店の浮世絵です。北斎の神奈川沖浪裏と歌麿の三人娘がお出迎えです。
高山駅南の信号角にある「飛騨娘像」です。「飛騨山娘」というのは飛騨地方の愛唱歌で、ここで歌われる飛騨山娘の姿を描いた像だと思われます。この信号を左折して、筏橋を目指します。
途中、郡中会所跡の日がありました。車道の縁石に埋め込まれているというのは初めての発見です。陣屋が近いこともあり、この地に置かれたようですが、調べても何も出てきません。
陣屋の北側に設置されている「青雲 若き日の山岡鉄舟」と題された山岡鉄舟の銅像です。山岡鉄舟(小野鉄太郎)は第21代飛騨郡代を務めた小野朝右衛門の子で、朝右衛門が飛騨郡代に任じられた弘化2年(1845年)から嘉永5年(1852年)までの7年間、10歳から17歳までの多感な時期を飛騨高山で過ごしています。
高山陣屋前でも、名物の朝市が毎日開催されています。
今回の高山旅行で一番行きたかった史跡の高山陣屋です。
玄関前の砂紋です。これは青海波(せいがいは)と言って海の波を模した縁起物の模様です。古くは平安時代の雅楽の衣装にもあしらわれた模様ですが、幕府直轄の高山陣屋ではふすまや壁などにもこの模様を散りばめることで、海の波のように終わり無くどこまでも無限に続く徳川の世をたたえることが好まれたとされています。
関幕をくぐると立派な床の間に美しい波模様が書かれた大きな壁が。規則正しく描かれた幾何学模様が壁一面に広がる様は圧巻ですが、これも青海波です。
玄関すぐ右側の部屋です。地役人の執務に使われた「御用場」です。火鉢が置いてあるのはいかにも高山を感じさせます。
廊下側から見た御用部屋
玄関脇の内庭
高山陣屋の配置図です。ここは、元来は飛騨高山藩主であった金森氏の所有する下屋敷でした。しかし、1692年(元禄5年)に幕府が飛騨を直轄領として以降、伊奈忠篤らによって整備され、代官所として用いられるようになりました。そして、1777年(安永6年)以降は郡代役所となり、明治以降も政府機関の役所として利用されました。
戦後は現存する唯一の陣屋であることから文化財として保存する方針が示され、1996年(平成8年)3月、1830年(天保元年)の絵図を基に約20億円を掛けて蔵番長屋、郡代役宅、奥座敷などが、ほぼ江戸時代の状態にまで復元されたものです。
江戸時代は身分制度が大変厳しくお部屋はもちろん、出入り口やトイレまで身分ごとに細かく分かれています。高山陣屋には出入り口は7箇所、トイレは12箇所もあるり、代官の奥様でさえ夫と同じ出入り口は使えません。さらに女中の部屋には雨戸がなく、朝になったら強制的に朝日で目が覚める造りになっていたんです。
で、こちらは地役人蔵が出入りした出勤口です。
そのすぐ右の部屋は勝手です。ここはお茶を入れるための台所です。
勝手を外から見たところ。
勝手にある囲炉裏です。
吊り下げる木材は地元材のクヌギでしょうか。
高山陣屋の釘隠しはうさぎです。このうさぎ、“真向き兎”というモチーフです。うさぎは子供をたくさん産むので縁起物として。また、火事から守ってくれる魔除けの力があると言われていたためです。高山陣屋にはこの真向き兎の釘隠しが150箇所もあります。