広ぶら芸ぶら HISTORY | geezenstacの森

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 広小路通のぶらり散歩は、広小路本町から栄にかけては「広ぶら 芸ぶら HISTORY」と書かれた絵・写真・歴史が掲示されています。2011年に広小路通の配電盤の補修工事の際に設置されたもので全部で16点制作されています。

 この広小路ですが、戦後は屋台が並んでいて、ここをぶらつくことを「広ブラ」と言ったそうです。上は「伊勢湾台風」について説明されています。

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 今回は広小路の北側に設置されているものです。上は左から「信長公出陣の図」、「信秀那古野の城中に矢狭間と切開図」、そして秀吉公貧賎の時おねねの方と婚礼の図」です。

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 広小路の誕生 万治3年(1660)名古屋大火災の後、防火空間確保のために町家を取り払い堀切筋を3軒から15軒に拡幅したことから「広小路」の名が生まれました。
 この道幅は現在もほぼ同じで、当時(江戸時代)はこの広い通りに、大道芸人、見世物小屋、茶屋、縁日が並び、庶民の楽しみの場としてにぎわったといいます。

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 江戸時代の広小路には川が流れており、この毎年5月〜7月の夜に御開帳される薬師如来が評判だったそうです。

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 「明治3年(1870)名古屋藩知事徳川慶勝は、名古屋城の破却と金鯱の献上を申出た。明治4年廃藩置県の年、金鯱は地上におろされ宮内省へ献納。明治5年3月東京湯島聖堂で開かれた日本初の博覧会に雄の鯱が、翌年5月には雌の鯱がオーストリアのウイーン万国博覧会へ出品された。その後、名古屋の有力商人が有志代表となって金鯱の名古屋城還付を願い出、宮内省より許可されて明治11年11月、復旧工事が始まる。明治12年2月金鯱は再び名古屋城天守閣大棟に帰った。」と解説にあります。

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 広小路には日清日露戦争の戦勝記念として「凱旋門」が作られたそうです。如何にも和風の凱旋門です。

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 大正末期〜カフェ大流行の絵です。

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 それらの掲示物の間に、ノーベル賞を受賞した野衣さんと小林さんの手形レリーフのオブジェが紛れ込んでいます。多分益川さんのオブジェは南側にあるのではないでしょうか。