飛鳥時代の謎―聖徳太子・天智・天武・持統の正体 | geezenstacの森

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飛 鳥 時 代 の 謎
―聖徳太子・天智・天武・持統の正体
 
著者 神一行
発行 学習研究社 学研M文庫

 

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 律令国家誕生までの黎明期・飛鳥時代。この、一見古代の雅を想像させる言葉の響きとは裏腹に、日本史上これほど権謀術数の時代はなかったのだ。好評シリーズ第2弾は、古代日本を統一した継体天皇や有名な聖徳太子の謎に満ちた正体、さらに大化改新クーデターから壬申の乱に至るまで、皇族VS豪族の謀略と暗殺にまみれた権力闘争など、“血ぬられた”飛鳥時代の真相を明らかにする。 ---データベース---

 

 もともとこの本はKKベストラーズのミステリー日本史の一冊として1991年に出版されたもので、それが学研のM文庫に2002年に再収録されたものです。結構読まれていたんですなぁ。でもって、この本は、「古代日本の謎」の第2巻として出たものです。個人的に日本の歴史で一番興味のあるのは「飛鳥時代」です。言葉の響きがいいのと、古代史が好きという意味で奈良は色々な遺跡があり、今も新しい発見が続いているということでロマンがあります。また、人物的にもサブタイトルにあるような聖徳太子の17条の憲法をはじめとする律令国家の基礎が出来上がった時代でもあります。一般には崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)の118年間にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指すのが通説です。ただ、この本で描き出されている飛鳥時代は、学校の歴史で学んだことと結構食い違いがあるなあ、という印象で、ある意味衝撃を受けています。章立ては以下のようになっています。

 

目次

 

第1章 継体王朝の謎―なぜ“継体”と名づけられたのか?
第2章 聖徳太子時代の謎―「日出づる処の天子」の正体は誰だったのか?
第3章 天智王朝の謎―大化改新クーデターの陰謀とは?
第4章 天武王朝の謎―壬申の乱が勃発した原因は何か?
第5章 持統王朝の謎―なぜ女帝が相次いで誕生したのか?
第6章 奈良朝前期の謎―藤原氏はどうやって権力を握ったのか?

 

 何はともあれ聖徳太子を中心にこの本で考察してみます。ここで、一般的に学校で教わる歴史教科書にある年表を見てみましょう。手元には東京法令出版の「日本史総覧」がありますのでそれを使って時系列を追ってみます。
574 	聖徳太子生まれる
585 	用明天皇即位
587 	用明天皇崩御、崇峻天皇即位、物部氏滅亡
592 	崇峻天皇暗殺、推古天皇即位
593 	聖徳太子、摂政となる(19歳) 難波に四天王寺を建立
603 	冠位十二階を定める
604 	十七条憲法を制定する
607 	小野妹子を隋に使わす 大和に法隆寺を建立
608 	第2回遣隋使派遣
614 	第3回遣隋使派遣
620 	「天皇記」「国記」編さん
622 	聖徳太子没

 

 聖徳太子は、19歳で日本で最初の女帝・推古天皇の摂政となって、天皇を助けながら数々の輝かしい政治を行った・・・というのが通説です。正史とされるこの歴史は、ほとんど「日本書紀」に書かれている出来事ですが、この時点で、すでにスルドイかたはお気づきでしょうが、607年に遣隋使・小野妹子を派遣して法隆寺を建ててから亡くなるまでの14年間、太子自身はほとんど何もしていません。一度目の遣隋使の時は、あの有名な隋の皇帝・燿(よう)帝への手紙で、その存在を見せていますが、2回目、3回目は太子が手をかけなくても派遣はできます。「天皇記」『国記」の編さんに関しても、蘇我馬子の命令のもと、蘇我氏で編さんされた物で太子は代表として名前だけ貸したような物です。
20代の時に、あれだけ大活躍をした彼が、いったい何をしていたのでしょうか?この本では、太子は601年にはすでに『斑鳩(いかるが)の宮』(現在の夢殿のあたりにあった)を造営し、そちらに移り住んでいます。女帝のいた都は飛鳥ですから、斑鳩との距離は約16キロ、当時の交通事情を考えるとけっこうな距離です。とても、天皇を助けて毎日政務をこなす人のいる場所ではありません。察するに、この時、太子はすでに引退もしくは、実務から遠ざかり斑鳩に引きこもった・・・と考えるのが妥当でしょう。

 

 それを裏付けるかのように607年、推古天皇は「仏教を信じても良いが、日本古来の神をおろそかにしてはいけない」という勅命(天皇の命令)を下しています。聖徳太子が斑鳩の地に法隆寺を建立したその年にです。太子と天皇が協力体制にあるなら考えられない事です。太子は593年に摂政となっていますが、その前年には崇峻天皇暗殺されています。つまり、太子とて時の政局に関わっていたということで、暗殺に一枚噛んでいたということが成り立ちます。昔、聖徳太子は厩戸王子と教えられました。そう、聖徳太子の呼び名は後世の人がつけた呼称なんですね。それは、聖徳太子の最後とも関係があり、皇族の常として暗殺の危険はあったようで、毒殺か自殺かといわれています。何となればこの太子の死後一族も、蘇我入鹿に殺されています。蘇我氏と対率関係にあったことは明白です。

 

 それにしても、この飛鳥時代、イメージから来るのどかさとは違い、皇族が後継者争いで暗殺に明け暮れた時代でもあります。歴史的事件としてはクーデターとしての「大化の改新」、内乱としての「壬申の乱」などの出来事が発生しています。ある意味、戦国時代に勝るとも劣らない面白さのある時代です。