
新米機長、村井知洋は頭を抱えた。ミスひとつで資格を剥奪されてしまう査察飛行、その担当が氏原政信キャプテンに決定したからだ。氏原は鋭いチェックで皆から恐れられる存在だった。そして、村井の最も長い一日が、幕を開ける。目的地、雪のニューヨークは遙か彼方、前途には様々なトラブルが待ち受けていた。操縦席、そしてパイロットの真実を描き切った、内田幹樹の最高傑作。---データベース---
「操縦不能」と「機体消失」がサスペンス小説だったので、この作品もてっきりそうなのかと思って読み始めましたが、全然事件は起こりません。そういう意味では肩すかしですが、飛行機に乗っても普段は飛行情報のアナウンスぐらいでしか機長の存在は知らないものですが、ここでは全編元ANAのパイロットの著者の、自分の現役時代の知識と経験を生かした機長のコックピット内での様子を事細かに描写している小説として非常に興味深く読めた作品です。
若くして大型機の機長に昇進した主人公・村井が、気難しい「曲者」と名高い査察室長から査察(いわばフライト技術の定期監査。不合格になると機長の資格を剥奪される)を受けます。序盤はそのぴりぴりとした緊張が読む側にもびしびし伝わって来ます。他の作品のように事故寸前の緊急事態には陥いることはありませんが、若くして-400の機長となった村井、伝説のチェッカーとして恐れられる氏原、大ベテランパイロットの大隈。このコクピットの3人を軸に、静かに話は進みます。それぞれが魅力あるキャラでベテランと新人の考え方の違いとか、着目視点の違いなどから自動操縦とマニュアル操縦の善し悪しが考察されます。
監査というと、受ける側にとって見れば、苦痛でありプレッシャーであることこの上ないでしょう。成田からニューヨークへの定期便、QNH101便は決められたコースをフライトしていくだけに思えますが、意外にもニューヨークのケネディ空港は雪模様です。大寒波が東アフリカに襲いかかっていて、シカゴやワシントンも例外ではありません。こういう特殊に天候での査察飛行ですから、よけいプレッシャーがかかりそうなものです。しかし、査察とはいえチエッカーはコーパイ(副機長)でもあるわけです。冷静に考えれば、自分の短所や課題をただで指摘してもらえるというお得な「いちだんと成長し、ひとつ壁を超えるための機会」に他ならないともいえます。本文の後半に「査察は教育である」とのチエッカーの氏原の台詞に、著者の価値観がよく表れています。優秀なだけにやや操縦の技巧に走りすぎて、顧客や同僚への配慮が不足しがちな主人公に、先輩機長2人はさりげなく、ベテランゆえのゆとりをもって温かく見守り、時に厳しく苦言します。機長は後ろを見て操縦しろとも教えます。後ろとは乗客のことです。
操縦技術ではもまず申し分の内吹雪での着陸をやり遂げる村井ですが、チェッカーとのブリーフィングでは当日の乗客の最高年齢と赤ん坊の年齢を応えることが出来ません。そこまでチエックしていなかったのです。しかし、こういう乗客がいることを頭に置けば急な旋回や急降下はこれらの乗客にはダメージに感じる要素であることを見逃していたんですな。渋いです。余裕のある円熟した機長ならそういう点にも気を配る優しさが必要なのです。
それにしても、ちょっとしたトラブルで機長は満足に食事をとることも出来ない事態に陥ります。何処の航空会社でも荘なのでしょうが、経費節減で機内に載せる食事の数は以前よりも少ないようです。そういう状況の中で、バスケとの選手が乗っていたために食事が足らなくなるんですな。予備の食事もすべて提供し客室乗務員の分も当然ですが、挙げ句は機長たちの食事までお客としてのバスケの先取の胃袋に消えるのです。いやはや、こういうこともあるんでしょうね。飛行機は空飛ぶ潜水艦とこの作品の中で例えられていますが、確かに列車や船旅のように外の空気を吸うなんてことは出来ませんわな。なにせ高度1万2千mの世界ですからね。そんな中での楽しみはやはり食事なんでしょう。
さらに機長さんも大変なことです。天気情報の分析とか、搭載燃料の消費具合とか、様々なチェックが頻繁に行なわれます。約12時間のフライトですが、交替で仮眠を取りながらこれらの作業を黙々とこなしていくわけです。小説中僅かな救いは北回りルートで飛んでいるおかげでオーロラを観ることで出来ることぐらいでしょうか。
雪のニューヨーク、ケネディ空港は通常のR4の滑走路が使えません。これもアクシデントで、他の会社の航空機は着陸を断念しますが、自信家の村井は滑走路が変わっても無事着陸することが出来ます。高い技術力があってのことですが、この大雪で滑走路が閉鎖される寸前手の着陸は手に汗握る描写です。普段は漫然と乗客として乗っているとこういう出来事が裏では発生していることは全然気がつきません。そういう意味でも、機長席から観た成田ーニューヨーク便、一読をお勧めします。