
18世紀のパリ。孤児のグルヌイユは生まれながらに図抜けた嗅覚を与えられていた。真の闇夜でさえ匂いで自在に歩める。異才はやがて香水調合師としてパリ中を陶然とさせる。さらなる芳香を求めた男は、ある日、処女の体臭に我を忘れる。この匂いをわがものに……欲望のほむらが燃えあがる。稀代の“匂いの魔術師”をめぐる大奇譚---データベース---
本の紹介文には「1985年に発表されるやドイツで15週間ランキング1位、 日本を含む45カ国語で翻訳され全世界で1500万部を売りあげた驚異の大ベストセラー。」表紙カバー画はワトーの「ユペテルとアンティオペ」です。中々洒落ていますね。この作品は映画化されていて、このブログでも2007年の7月に取り上げています。この映画の印象は強烈で、いつか原作を読もうと思っていたのですが、つい最近までずれ込んでしまいました。長年の習性で、レコード時代のクラシックは焦って買わず、輪入盤のバーゲンセールのとき見つけたら買えば良いという感覚で対応しているのでこういう事になります。(^▽^

さて、映画は世界的にはヒットしましたが日本では宣伝の割に10億円の興行収入とあまりぱっとしませんでした。R-12指定でCMで物議をかもして話題性は充分だったのですが客層が限定されたのでしょうかね。3D映画が一時話題になり、今又ポシャってしまいましたが、こういう映画で香り付きの映画で上映されたらさぞ話題になって、映画館に足を運ぶ人も増えるのでしょうが、3Dなんて眼鏡をかけるだけで暴利をむさぼるんですから、観に行きたいとも思いませんわな。
で、映画は原作を忠実に再現しています。普通原作とまったく違う脚本でストーリーが作られがっかりする事が多いのですが、この作品はそうではありませんでした。そんなことで、先ず、映画を観てからこの原作を読む事をお勧めします。その方が18世紀のパリの様子や香水の町グラースの状況を視覚的に理解しやすいからで、更に、個人的にいうなら音楽がイメージをかき立てるのに非常に効果的に使われているからです。何しろ、サントラの演奏をラトル/ベルリンフィルが受け持っているのですから申し分ありません。
さて、「香水ーある人殺しの物語」が本のタイトルです。映画は「パヒュームーある人殺しの物語」とカタカナになっています。これだけで随分とイメージが変わるものですが、個人的には後者の方が今の若い人には受け入れやすいのではないでしょうか。そういう意味では映画配給会社の宣伝マンの感覚に軍配を上げます。まあ、原作が出てから映画化までに20年以上を擁していますから時代の変化もあるのでしょうが、「香水ーある人殺しの物語」では何か堅いイメージがあります。ですが、単行本の表紙絵とのマッチングでいうなら「香水ーある人殺しの物語」の方がベターでしょうね。今は文庫本で単行本と同じデザインで出ていていますが、映画の公開時期の版だけはイメージの表紙に差し替えられていて「パヒューム」の方が大きく表記されていました。

本書は1987年の長編部門の世界幻想文学大賞受賞作品です。ファンタジーという意味では非常にグロテスクでもあり、究極の匂いフェチの物語です。自分の匂いを持たない=存在感の無い(持たれない)とされたグルヌイユが自らの天性である嗅覚である種の神を作り出す物語だと思うのですが、せつないファンタジーです。彼は物質面では何一つ欲することなく、ただただ匂いだけを自分のモノにしたかたったわけで、それが彼にとっての究極の欲望だったわけですが、確かに人の香りはその人の存在の証しでもあるわけですが、それを手に入れるためには殺人をも厭わないという手段がこの小説の肝なんでしょう。
第1部はグルヌイユが生まれてからパリの調香師バルディーニのところを発つまでの話ですが、ほとんど映画は同じ運びになっていました。ただグルヌイユには体臭がないことに司祭が気付いたりする描写があるので、「彼に体臭がない」という事実がその後の彼の人生に大きくかかわって来る事が最初から暗示されています。子守りに育てられる幼少期に一時は死と直面しながらも生きながらえる彼の生命力の強さはこの時代にあっては希有なものでしょう。その意味ではある意味ミュータント(新人類)的な一面が、彼が生に執着させたといっても良いのかもしれません。
この第1部の後半、養母によって皮なめし業の職人に引き取られてから物語が俄然と面白くなります。この頃から彼は匂いに対する天才的な能力を自覚するようになります。さして、使いに行った調香師バルディーニとの出会いが彼の人生を決定づけます。映画でもこのバルディーニ役をドイツ、フランス、スペイン合作の映画ながら、アメリカ人のダスティン・ホフマンが演じて存在感のある所を見せていました。グルヌイユはここで香水の精製方法を学びます。彼の作り出す香水は、他の調香師を圧倒する魅力的なもので、廃業寸前だったバルディーニの見世を建て直します。しかし、彼は表には出ません。。そう言う事には興味が無いのです。そして、この時代彼は理想の香りを求めて一人の少女を殺します。これは明らかに殺人で読者にとってはショッキングな出来事なんですが、グルヌイユに取っては理想の香水を作るための手段に過ぎません。一通りの技術を習得したグルヌイユはバルディーニの元を去ります。老調香師にとってはグルヌイユは必要ではなく、彼の残したレシピのみで事足りたのです。
第2部はパリを出たグルヌイユがグラースに辿りつくまでの話なのですが、何とその間グルヌイユはオーヴェルニュ山脈の中の洞窟でたった一人で7年もの歳月を過ごすことになります。それは普通の人には到底生き延びる事はできないと思われる過酷な環境にありながら、ただただ匂いの王国を築く夢だけを見ながら全く人と接することなく過ごすのです。この部分、彼が悟りを開く過程が描かれますが、まるで荒行の修行僧のような振る舞いです。そして自分の匂いだけは嗅げないことに気付き、その自分の匂いを嗅げない事を恐れ山を降りる決心をして、彼は降り立ったモンペリエの町で自分の体臭の香水を作ります。この体験で、グルヌイユは普通の人にはわからない微妙な様々な人間の匂いを調合します。いろいろな調合の体臭をその日によって使い分け、またそのことで周りの人間の態度が変わるというのは、まるでグルヌイユが香りの仙人になったような描写で興味深いところです。
そして第3部がグラースの町でのクライマックスです。グラースという待ちは今でも香水が町の主たる産業です。そして、ここでも若い乙女の香しい匂いを嗅ぎ付けます。彼の求める究極の香りの元手になる匂いです。そこで、この町の外れの一見の香水業者の仕事場に潜り込みます。ここでは、彼が学びたかった香料抽出の「解離法」を会得します。そして、彼はじっくりと時が熟すのを待ちます。先輩のドリュオーをあっという間に追い越してしまいますが、理屈でなく全て感性で仕事をこなすグルヌイユの才能が益々強調されていきます。小説ではこの後、殺人事件が次々と起こります。実にあっさりとあっという間に何人もの若い娘が犠牲者となり町が恐怖に陥ります。本来なら連続殺人事件で、警察が大騒ぎをするのでしょうが、ほとんどその殺人描写はありませんし、警察の捜査も描かれません。グルヌイユの視点で香水の原料としての殺人でしかないからです。ここは映画の方がかなり映像ということでサスペンス色が強い部分です。しかし、死体は裸で髪の毛が無いという猟奇的なものです。この辺からグルヌイユは益々自分の世界のみに生きる以上正確な人間として描かれていきます。そして、最後の獲物ともなるグラースの政務官リシの娘ロール(映画ではローラ)を狙います。この最後の殺人だけは微に入り細に入り描かれています。しかし、グルヌイユにとっては完全犯罪ではなく香りを手に入れるだけの手段ですから直ぐに見つかる事になり、逮捕されます。
しかし、ここからがこの物語のクライマックスです。グルヌイユは広場に引き出され、衆人の面前で死刑執行が執り行われるのですが、ここで彼が作り出した香水がその場にいる人間を恍惚の状態に陥れてしまうのです。この部分は小説ではやや分りにくい所ですが映画では実に見事にこのファンタジーなシーンを描いています。これが映画の方が理解しやすい点という事で、先に映画を見た方が言いという理由です。罪人のはずのグルヌイユですが解放されてしまいます。
最後は、究極の香水を持ってかれは生まれ故郷のパリに戻ります。そして、群衆の前でその香水を自らに振りかけます。映画は交響曲の群衆の中へ入っていくシーンで終わっていますが、原作はこの群衆にグルヌイユが食べられてしまうというグロテスクな描写になっています。何ともすざましい怪奇ファンタジーのような結末ですが、小生にとっては仏教の無に帰る「輪廻」の思想のようなものを感じました。なぜなら、グルヌイユの前ではキリスト教は無でしかないような描かれ方をしているからです。
主人公のジャン=バティスト・グルヌイユのグルヌイユというのは「蛙」という意味です。それも、食用にする「ウシガエル」を指しています。そう考えると何故か意味深なネーミングである事が分ります。
さて、下は映画のサントラで「究極の香水」の完成シーンで流れる音楽です。もちろん演奏は、ラトル/ベルリンフィルです。