かげゑ歌麿 | geezenstacの森

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かげゑ歌麿

著者 高橋克彦
発行 文芸春秋

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 殺人現場で記憶をなくした美女は歌磨の娘名のかーーーー。--データベース---

 昨年、テレビ朝日で「だましゑ歌磨II」が放送されました。本来は「オール讀物」平成23年11月号掲載の「さやゑ歌麿」が原作ということで、タイトル的には変わってしまっていますが、これも第1作の「だましゑ歌麿」が好評だったからでしょう。

 さて、原作としては2012年11月号の「オール讀物」に続編にあたる「かげゑ歌麿」が発表されました。こちらは、まだテレビ化されていないということで取り上げてみることにします。ただ、こちらは原作が100枚とちょっと小粒になっていますので、ドラマ化されるかどうかは微妙なところでしょうね。

 キャッチフレーズ通り、このストーリーでは歌磨、北斎(春朗)、源内に加え、唐来参和もちょい役で登場しますし、更には漥俊満も登場します。高橋氏としては大サービスのつもりでしょうが、唐来参和などは冒頭の屋形船のシーンなどのちょい役での登場で肝心のストーリーには絡んでこないのが残念です。事件はまたしても殺しです。今度の悪党は「月影」、しかし、捕まらないのは現場の関係者を一人残らず皆殺しにするからです。しかし、今回の事件には近くに女が倒れていました。事件の鍵を握りそうなのですが、この女記憶喪失の様で何を聴いても埒があきません。調べもので居残っていた仙波一之進は現場に駆けつけますが、小者の菊弥が見つけて来た油紙で包まれた包みを見ると、その女が突然喚き出しこの包みに反応するのを見て関係を得心します。

 この女の素性を探るために、源内にエレキテルの処方を頼みます。その処方で女が歌磨の名を叫びます。これには仙波も蘭陽もびっくりです。そして、この女の持っていたものが問題となります。画帳が含まれているのですが、この画帳を漥俊満が改めます。俊満は歌磨の若き頃名乗っいてた「豊章」時代の画風のものだと推察します。更には、残された簪が若き頃の吉原の女の形見と断定します。それは足脱けまでおこした遊女のおゆきに与えたものでした。女はじょじょにしょうきにもどりつつあり、加えて、紙と筆を与えると見事にすらすらと描いていきます。親譲りか上手いものです。こと、ここに至りこの女が歌磨の娘という線が濃くなって来ます。

 歌麿は、ここ半月の間に4度もゴロ付き連中に狙われています。もちろん金で雇われた連中なのですが、黒幕を辿るとどうも御老中の線が濃厚です。そんなこともあり、暫く江戸を離れて房総の方へ身を隠していました。そんなところへこの騒ぎです。歌磨は、急遽江戸に戻ることになります。早速蘭陽の店で対面し、歌磨は自分の娘だと得心します。処が春朗だけはこの女何処かで見覚えがあると訝しく思います。しかし、歌磨は娘と信じて疑いません。しばし、親子の対面です。

 しかし、それもつかの間、月影がその夜動きます。見張りの小者が殺され娘がさらわれます。身代金は100両。受け渡し場所は芝愛宕山弁天です。

 推理小説愛好家ならこういう設定でただのかどわかしでないことぐらいはピンと来るでしょう。なによりも、作者の高橋氏は希代の推理小説作家です。娘の生死がかかっていますので、定石通り歌磨は単身で愛宕山弁天に乗り込みます。まあ、ここからがこのストーリーの醍醐味ですが、それか伏せておきましょう。

 暴れん坊の歌磨ですが、さすがに単身は危険が伴い怪我をします。それより、ストーリーが非ぬ方向へ転回し、この作品では一応の事件の解決はみられますがどうも歯切れの悪い終わり方です。どうもまだまだこの歌磨シリーズは続きそうな気配を残しています。ということは、ひょっとして続編まで書かれた段階でドラマ化があるのかなという風にも読んで取れます。

 まあ、元々この歌磨作品の関連で「おこう紅絵暦」、「春朗合わせ鏡」、「蘭陽きらら舞」の三作が書かれていますから、それらの複合体として捉えればまだまだ歌磨周辺のサブストーリーは幾つも書かれていく様な気がします。ご存知だと思いますが、歌磨の浮世絵は江戸幕府の世を乱すものとして度々制限を加えられています。そして、晩年の文化1年(1804年)、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)を描いたことがきっかけとなり、幕府に捕縛され手鎖50日の処分を受けます。これは当時、豊臣秀吉を芝居や浮世絵などにそのまま扱うことは禁じられていたことに加え、北の政所や淀殿、その他側室に囲まれて花見酒にふける秀吉の姿に当代の将軍・徳川家斉を揶揄する意図があったとも言われています。この刑の後、歌麿は非常にやつれたといいます。しかし歌麿の人気は衰えず版元からは仕事が殺到したとされ、その過労からか二年後の文化3年(1806年)に死去してしまいます。享年54でした。ちなみに春朗は前年の文化2年から葛飾北斎を名乗るようになります。