
維新史上もっとも壮烈な北越戦争に散った最後の武士! 開明論者であり、封建制度の崩壊を見通しながら、継之助が長岡藩をひきいて官軍と戦ったという矛盾した行動は、長岡藩士として生きなければならないという強烈な自己規律によって武士道に生きたからであった。西郷・大久保や勝海舟らのような大衆の英雄の蔭にあって、一般にはあまり知られていない幕末の英傑、維新史上最も壮烈な北越戦争に散った最後の武士の生涯を描く力作長編。---データベース---
河井継之助を主人公にした「峠」は司馬遼太郎の長編小説の中でも一番読み応えがありました。氏の作品は人気作品が多く、トップの「竜馬がゆく」以下、「坂の上の雲」、「花紙」、「国盗り物語」、「覇王の家」etcとかぎりがないのですが、この「峠」はある意味マイナーな人間を主人公に据えている点で、人気度はワンランク下なのではないでしょうか。NHKの大河ドラマ「花神」で、準主人公として描かれたのは1977年でしたから、その時はちょっとしブームにはなったのですが、それから30年以上経っていますからね。ただ、最近では2005年に日本テレビから年末特番として河井継之助 駆け抜けた蒼龍」が中村勘三郎主演でドラマ化されていました。これは十八代目・中村勘三郎襲名記念大型時代劇として放送されたらしいのですが、残念な柄見ていません。再放送されるといいなぁとおもっていたら、時代劇専門チャンネルでこの12月29日に放送されるそうです。

河井継之助は、司馬遼太郎が描いた数多い英雄群像の中でも極めて個性的で、この時この場所にいて輝く人物であったということが分ります。ただ、生まれ育った長岡藩は小藩であったがために、充分にその力が発揮出来ずに終わってしまった哀しみが残ります。彼が高杉晋作のように幕末期に強大な勢力を持っていた長州藩の様なところに存在していれば日本の歴史はかなり変わっていた様な気がします。そう、位置付けとして長岡藩の高杉晋作の様な行動力と見識穂兼ね備えた先見の明のある人物だったのです。
「峠」は「花神」の中ではサブストーリーとして描かれていましたが、単発であれば別ですが、単独の大河ドラマでは制作しにくいでしょう。何故なら描かれる場面と台詞の殆んどを河井継之助一人が占めなくてはならず、脇役で物語を盛り上げる人物がなかなかいないからです。継之助の行動と思索が全てであり、そしてそれがあまり自明でないために、誰が見てもよくわかる話にならないからです。そして最も問題な点は、北越戦争が激戦であったという歴史的事実はあるものの、それはガトリング砲の火力と長岡藩の洋式兵備の為せる業であり、たとえそこに官軍に対抗し得る最新軍事力が存在ても、それを動かす軍勢には限りがあり、どう見ても勝てる戦いではなかったからです。地の利と奇襲攻撃による河井継之助の戦術采配は秀逸であったのですが、それが単発で終わってしまったところが戦略の無さです。
官軍と幕府軍のどちらにも属さないという中立的立場は長岡七万四千石という小藩の家老河井継之助にはちと荷の重い舵取りでした。こういう政局、局面に立たされなければ河井継之助は優れた経営者として後世に名を残したでしょう。鳥羽伏見の戦いの後、長岡藩も藩邸を整理し、長岡に引き上げます。そのさい、継之助は江戸の米相場がガルと見るや大量の米を買い付け、また北陸では金より地用ほうされていた大量の銅銭をかき集めて東北に運びます。江戸からの引き上げは蒸気船を使い一度に藩士をはこびます。この時、一緒に会津藩士と桑名藩士も同船させます。いずれも今日とでは共に行動した藩です。そして、米は函館で降ろして高値で売り渡し、銅銭は新潟で両替商に持ちかけて為替駅で儲けます。商才と蒸気船の有用性を見抜いての行動でした。
この「峠」は上、中、下の3管に別れていますが、もっともスリリングで面白いのは下巻です。大雑把に分けて、上巻は、志はしっかりあれど、長岡から江戸に出てきて、特になにするわけでなく、どちらかと言えば、傍観者のような立場で歴史をじっと見据えつつも、ふらふらしているお話です。そして、中巻は、激動の幕末の渦に巻き込まざるを得なくなっていくという幕末の混乱の中で、河井は歴史が変わろうとするこの時代に、長岡藩を武装して独立国家にするという夢を抱き、そのために奔走する姿が描かれます。そして下巻は、いよいよ歴史の渦に巻き込まざるを得なくなってしまった河井がどう処するのかという件になっています。
この下巻では、河井継之助が、時代が変わることを感じながらも、藩のために藩主のために粉骨砕身動き回る姿が描かれます。一見矛盾している思想と感じられる部分もありますが、枯れはやはり最後まで武士であったのです。藩を潰さず、藩主を助ながら進むべき道は長岡藩を戦争に巻き込まずにおける方策でした。そのために、河井は小千谷の新政府軍本陣に乗り込み、新政府軍監だった土佐の岩村精一郎と会談します。しかし、岩村に河井の意図が理解できるわけもなく、また岩村が河井を諸藩によくいる我が身がかわいい戦嫌いなだけの門閥家老だと勘違いしたこともあり、降伏して会津藩討伐の先鋒にならなければ認めないという新政府の要求をただ突きつけるだけで小千谷談判は決裂してしまいます。政府軍に話の分かる人間がいれば状況は変わっていた場面でした。ことここに至り、長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、北越戦争へと突入していきます。
河井継之助は最終的には藩の家老上席、軍事総督でした。それも、後陣で指揮をとるタイプでは無く、率先して行動するタイプの人間でしたからこの戦争では2度負傷します。そして、この2度目の負傷では左膝に流れ弾を受け重傷となります。後にこの傷がもとで破傷風になり絶命してしまいます。しかし、最後の時に際して、河井は自分を火葬にしてくれと言い残しています。そして、自分の棺を下男に作らせています。まことにあっぱれな男です。
この小説は彼が息を引き取り、荼毘に付されたところで終わります。彼の行動の評価は100年後に定かになるだろうという言葉を残しています。まさに、今の時代彼の取った行動が評価される時期です。藩体制という枠に固執した河井継之助でしたが、その先を見る目は確かで、庄屋の息子で武士に取り上げようと考えていた外山修造には、近く身分制がなくなる時代が来るからこれからは商人になれと伝えています。彼ははその通りに生き、後に日本銀行の大阪支店長を経て、1909年(明治32年)に阪神電鉄社長に就任しています。
河井継之助の話は、司馬遼太郎の作品では短編集の「馬上少年過ぐ」でも登場しています。「峠」は文庫本3冊のボリュームですから、彼の人となりを簡潔に知るにはこの中の「英雄児」を読むのが手っ取り早いでしょう。「峠」は枯れを英雄視したままで終わっていますが、こちらは長岡を戦火で包んでしまった継之助を、後年うらむ人々のことまで書き連ねています。
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