高杉晋作 | geezenstacの森

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高杉晋作

著者 池宮 彰一郎
発行 講談社 

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 吉田松陰に十八歳で出会い教えを乞い以降維新革命に尽瘁、二十八歳でこの世を去った高杉晋作。その尊王倒幕の運動によって盤石の徳川幕府はついにゆらぎ、倒壊は時間の問題となったのだ。時代を駆け抜けた傑出した人間の型破りの青春の客気を、晋作自身の視点を通じ描く断然面白い新しい歴史小説の誕生。上巻

 「志士は頸首所を分つ事を恐れず、溝壑に填まり長く終に反ることを得ず」―。松陰の言う死をむかえた高杉晋作。行年二十七年と八カ月。その若すぎた死にはあらゆる伝説が生み出される。時代を読む確かな眼、破天荒な実行力、そして客気。世界は晋作のような英雄の出現を待っていたのだ。下巻---データベース---

 高杉晋作、その名前は昔から知ってはいましたがイマイチ歴史の主舞台には登場してこなかったので、何となく坂本龍馬や勝海舟の陰に隠れて曖昧模糊としての存在感しかありませんでした。桂小五郎が対外折衝和担当していたので、高杉晋作は長州藩の中だけで活躍したというフィールドの違いが、かくも評価の違いとなってしまったのでしょう。しかし、幕末期にあって長州藩を一つに纏め倒幕の中心的存在としてあらしめた高杉晋作の活躍を看破しないわけには生きません。作者の池宮彰一郎氏は、執筆に当って極力俗説を排除し、史実に則った高杉晋作しか描いていません。そこのところがこの作品の一つの評価の基準です。

 高杉晋作は、幕末に活躍した長州の藩士であす。長州藩は幕末に攘夷論から開国論へと大きな躍進を遂げ、倒幕に大きな力を発揮して、明治維新の際政府の中枢を担う要人を何名も輩出しました。しかし、幕末という変動の時代に無事に命を永らえることができずに、維新を目の前にして志半ばで散っていく者も多くいました。高杉晋作もその一人で、彼は、維新を見ることはなく労咳で没してしまいますが、己の強固な意志で長州藩を倒幕の大立役者とし、日本の歴史を大きく舵取りをして、筋道をつけてから亡くなっていることがこの小説で明らかになります。高杉晋作は、18歳で吉田松陰の教えを受け、以来十年間を維新革命に身を投じ、28歳で病を得て、若すぎる死を迎えています。わずか十年間を時代の最先端にあって駆け抜けた鮮烈な人生だったといえます。幕末においては長州藩だけが倒幕を藩ぐるみで主導していました。倒幕と佐幕に揺れ動く長州藩を最終的に倒幕の藩内革命に導いたのは、高杉晋作であり自らが創設した奇兵隊でした。明治維新の立役者は西郷隆盛や坂本竜馬でなく、実は高杉晋作だったのではないかと思わせる作品である。この作品を読んでいると、西郷隆盛が如何にて権勢を狙うかを狙う狸で、坂本龍馬が海援隊の組織のもと商魂逞しい商人であったかが分ります。まあ、視点が革命家としての高杉晋作の等身大の人物像を鮮やかに描いているのでしょうがない面もありますが、それにしても痛快な切り捨てです。
 
 高杉晋作の末期の作といわれる一首があります。「おもしろき こともなき世を(に) おもしろく」。激動の時代を波乱万丈に生きた高杉晋作が、「面白くもない世の中」と詠み、「面白く」したという自負を込めて詠んだのか。天才の持ち合わせる遊び心の凄みを感じさせる歌であります。

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                高杉晋作

 長州藩は尊王攘夷を唱えながらも藩士を諸外国へ留学させています。高杉晋作もその一人でした。ただ、彼の場合は1862年に上海の海外視察、各国領事館訪問というものでした。この時、欧米列国の上海での専横振りを見たことで、攘夷は不可能と悟ります。列国の合理的なものの考え方、圧倒的な近代的設備は、何百年にもわたって鎖国を続け、すべてのものごとがはるか昔のままの状態で停まっている日本が太刀打ちできるものではないことを、この鋭利な頭脳の持ち主は瞬時に悟ります。しかし、日本の近代化のためには幕藩体制では無理と判断し、最初は攘夷を目指します。この一見矛盾した思想がなかなか理解のシヅライところですが、この作品ではそういう彼の思想の内面を丁寧に描いています。さらに、高杉晋作という人間の持つ強さや弱さ、苦悩、そしてどのように激動の時代を生き抜いたかを書いており、高杉晋作という人間を深く知ることができました。ちなみに同じく高杉晋作を主人公にした司馬遼太郎さんの「世に住む日々」との違いは、「世に住む日々」の前半は吉田松陰が主人公になっているという点と、様々なエピソードが書かれているのでかなり俗説と思われるエピソードもかきこまれていることです。本来の高杉晋作はこちらの方が実像に迫っていると思われます。

 長州藩にとって幸いだったのは、この高杉新作を始めとして、井上門太・伊藤俊輔(伊藤博文)などが実際に外国の地を踏み、その実情を目で見てきているということでしょう。 井上たちはロンドンを訪れたのですが、行く前には攘夷論者だった彼らが帰ってきたときには熱心な開国論者となっていたのは、高杉新作と同じです(この当時処藩の中で、藩士を外国に留学させていたのはこの長州藩と薩摩藩のみでした。)。長州藩には、このように、実際に外国の実情を見て来た目で日本の今後の在り方考えることのできる強者たちがいたことがいたことが幸いしています。その彼らが、下関戦争の講和会議では大活躍し、欧米を相手に堂々の外交を展開したことは記憶に残しておいてもいいでしょう。

 しかし、その長州藩にあっても、高杉晋作たちは持て余し者だったようで、彼らはその過激な発言と行動のため何度も命を狙われ、そのたびに命からがら逃げ回っています。ここら辺りはじっくり読まないと分りづらいところですが、彼らが自分たちの思うような倒幕を成し遂げるためには、まず武力による藩内革命が必要だったことは確かです。高杉晋作は「奇兵隊」を創設しましたが、後にはこれを動かして藩内革命を実行し、幕府の長州征伐に対する藩意の統一に成功します。これで、倒幕に対する国勢は一気に盛り上がっていきます。しかし、高杉晋作はその絶頂の時期に不治の病を得て28歳で散ってしまいます。脱藩して放浪するところは坂本龍馬と同じですが、それでも心情的にはどこまでも忠誠を誓った長州藩士でした。この本を読んでいると、彼が描いた革命がまさに成就しようとするそのときに亡くなったというのは、実は一番幸せな死に方をしたということなのではないでしょうか。

 高杉晋作は、天性の「革命家」だったとえるでしょう。さらに、わがまま放題に育てられたその気性は気ままに過ぎることもありましたが、誰もがそれを許してしまうような恵まれた資質を持っていました。カリスマ性があったということでしょう。最後には高杉家から廃嫡されて、藩命により谷潜蔵と改名し、慶応3年(1867年)3月29日には新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となります。正妻はいましたが、後年は妾とともに行動し、さらに晩年にあっては幕府に捉えられた野村望東尼の救出に当るなど人間的にも魅力のある人物です。

 高杉晋作は長州藩の幕末の姿勢を大きく転換させ、倒幕に向けて邁進させた中心人物です。革命家であった彼の真骨頂は、まさにそこにあったのでしょう。長州藩が動かなければ倒幕がならなかったのは歴史的事実でした。高杉晋作、もうちょっと注目しても良い人物です。
             
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