「かつて、江戸の街には縦横無尽に「運河」が張りめぐらされ、イタリアのベネチアにも負けない美しい光景が広がっていた・・・!?」
これが「江戸の運河」編のプラタモリのキャッチフレーズでした。江戸の市井ものの小説を読むとやたら猪牙船(ちょぎぶね)というものが登場します。江戸時代は駕篭が一般の乗り物というイメージがありますが、実際にはそれと同じぐらいの頻度で移動手段としては船が利用されていました。いや、江戸時代の物流の最大の担い手は船であったといっても過言ではありません。
これが「江戸の運河」編のプラタモリのキャッチフレーズでした。江戸の市井ものの小説を読むとやたら猪牙船(ちょぎぶね)というものが登場します。江戸時代は駕篭が一般の乗り物というイメージがありますが、実際にはそれと同じぐらいの頻度で移動手段としては船が利用されていました。いや、江戸時代の物流の最大の担い手は船であったといっても過言ではありません。
この江戸の運河編ではその運河に目を向けたものでした。最初にその重要さに気がついたのは江戸の町を作った徳川家康でした。この回に登場した江東区の「小名木川(おなぎがわ)」もその徳川家康が1590年頃、小名木四郎兵衛に命令し開削させた運河です。地図で見るとこの小名木川、一直線になっているのが分かります。つまり、この川は計画的に作られた運河の中でも最初の一本だったわけです。それは、上総の国の行徳で作られた塩や、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の米などを江戸に運ぶために掘られたもの塩を運ぶルートとして開削された歴史があります。この運河の完成によって、江戸城のお膝元までの物流が可能になったのです。切り絵図は1865年のものです。

番組ではこの小名木川を「中川船番所」のあった一番橋のたもとから隅田川までクルージングします。江戸の経済の中心だった日本橋に向かってま~っすぐ一直線に続く小名木川は、その後江戸幕府の「物流大動脈」に発展していきます。現在でも、川岸にはその名残が残っています。川岸には江戸時代は藩邸が立ち並び、その中の一つ、松平肥後之守屋敷の後はそっくりそのまま製粉工場(東京製粉)となって現在に至っています。番組ではこの工場には今も東京湾に着いた小麦がはしけで、そのまま横付けされポンプで陸揚げされる様を写していました。
さらに、消えた運河も大追跡しています。古地図に残る「六間堀(ろっけんぼり)」の痕跡を追いかけて住宅街をブラブラしています。戦災で焼けた瓦礫をこの六軒堀の埋め立てで使っていたのです。そして、後には家が建てられています。川の中央は今では路地として残っています。そして、家と家の境には護岸の跡が残っていました。街が様変わりするなかで残された、護岸の一部。ひっそりと残る石は、船が行き交っていたにぎやかな時代も、ヨイトマケの唄を歌いながら埋め立て工事が行われていた頃のことも、ずっと知っているのですね。
戦後は経済発展の中で地盤沈下や汚染に見舞われながら、今また、きれいな川として再生されつつあります。横十間川と運河の交差点、クローバー橋からの眺めも素敵でした。水辺の景色は気持ちのいい風が通り抜けて、ほっと一息、心を静めることができます。現在では小名木川の護岸には遊歩道も整備され癒しの空間となっています。
前編は下記で鑑賞出来ます。







「江戸の運河・後編」では運河の町でもある江東区にある深川は富岡八幡宮から始まります。江戸時代初期には浮島の用なところにあった八幡社ですが、徐々に埋め立てられ深川の守り神となっていきます。この富岡八幡宮に日本地図を完成した伊能忠敬の銅像があるとは知りませんでした。なんでも、この近くに住んでいたとか・・・小名木川沿いには海辺大工町がありましたが、この富岡八幡宮はその舟作り職人の守り神でもあったようです。また、深川は木場の名が残るように材木の町でもありました。貯木場が運河のあちこちにありました。火事の多かった江戸は、この深川の材木で素早く復興する事が出来たのです。
さらには佐賀の港と形が似ている!?という江東区佐賀を探索しています。江戸時代縦横に張り巡らされていた運河は時代とともに埋め立てられていきます。その痕跡を辿るのも番組の視点です。この佐賀町は前身はその貯木場です。そのために、この地には倉庫が建てられました。それが現代にも続いているのがこの佐賀町です。現代でも、この地には運送会社が集中しています。一大トラックターミナルという風情です。そう、埋められた運河(油堀)の上には首都高速深川線が作られています。そのため川のカープに沿って高速道路が建設されています。船の物流は現在はトラックに取って代わっている象徴なんでしょうね。しかし、運河が姿を消し、街の様子が一変しても、東京は江戸の都市計画の延長にあるのだということがわかります。考えようによっては、東京の都市計画の基礎は江戸時代に築かれたといっても過言ではないでしょう。こうして考えると、江戸の街を作った徳川家康は400年後の日本の姿を考察していたという事になります。自然の地形を取り入れ、そこに巧に運河を配置したという事でしょう。





物流の主役は、時代とともに水運から鉄道へ、そしてトラックへと変遷してゆきます。最後はそういう物流の最たるものである日本一の規模を誇る巨大郵便局を取材しています。1日に3千便のトラックが出入りし、およそ2千万通の郵便物と40万個の小包を仕分けるという江東区新砂地区にある日本郵便東京支店の物流倉庫です。最新鋭の仕分け機器があるかたわら、人海戦術の部分も残していて最後は作業員の能力にかかっているというところはいかにもアナログ的でした。そうそう、構内の移動は自転車というギャップも面白かったです。
手段は変われど、江戸から現代まで、物資を運び人々の暮らしを支えてきた「物流の街」は今もこの地にそのまま息づいています。タモリが「東京は江戸の遺産で食べている」と語っていましたが、江戸時代って凄い都市計画の上に成り立っていたんだなぁと感心してしまいます。何となれば当時は江戸は世界一の人口を誇る街だった訳ですから、日本は決して世界から遅れていた訳ではないのです。
江戸の痕跡を辿る事で、ちょっとした川の流れや土地の起伏、不思議な銅像や石垣の影には意外な歴史が眠っている事を改めて感じました。個人的には3月に久しぶりに東京へ出かけます。あちこちを巡って、そういう痕跡探しをしてみたいと思います。多分、そうする事で時代小説にもっと嵌まっていくんでしょうな(^▽^
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さあ、後編も映像で確認しましょう。下記で見る事ができます。