
江戸から三日を要する山間の村で、生まれて間もない庄屋の一人娘、遊が、雷雨の晩に何者かに掠われた。手がかりもつかめぬまま、一家は失意のうちに十数年を過ごす。その間、遊の二人の兄は逞しく育ち、遊の生存を頑なに信じている次兄の助次郎は江戸へ出、やがて御三卿清水家の中間として抱えられる。が、お仕えする清水家の当主、斉道は心の病を抱え、屋敷の内外で狼藉を繰り返していた…。遊は、“狼少女”として十五年ぶりに帰還するのだが―。運命の波に翻弄されながら、愛に身を裂き、凛として一途に生きた女性を描く、感動の時代長編。---データベース---
舞台となるのは江戸から片道三日の所にある瀬田村と瀬田山です。そして瀬田山を象徴する雷桜。しかし、どれも小説の中の創作物です。登場人物の清水斉道も実在しません。しかし、モデルはあります。史実では徳川斉順(とくがわ なりゆき)といい、江戸幕府11代将軍徳川家斉の七男です。そして、小説と同じように水徳川家第3代当主を経て、第11代紀州藩主になっています。小説では少しプロットを変えて早死にする設定になっていますし、小説で登場する様人の榎戸角之進なる人物も実在しません。そういう意味では、完全なる宇江佐真理さんの創作長編小説ということになります。そして、この作品はすべてが、おとぎ話の中で展開する物語のようになってる点で他の宇江佐真理作品とは趣を異にします。おとぎ話ですから冒頭は、隠居した御三卿清水家の元用人・榎戸角之進が瀬田村を訪ねて昔を想起するという始まり方をとっています。
隠居して68になった榎戸角之進は桜の季節になり、一人旅に出ます。しかし、目的地を前にして途中の茶店で寝てしまい、この日は他に若い商人の二人連れと、この茶店に泊まることになります。この茶店で使っている炭は大層いい匂いがします。それは桜の炭で、瀬田村から運ばれて来るという。運んでくるのはお遊というおなごで、狼女といわれていました。榎戸はそのお遊をよく知っていたのです。こうして、茶店のおばばはお遊にまつわる話しを語り始めます。
舞台となる瀬田村は隣接する二つの藩のちょうど境界に位置する村でした。最初は西側の岩本藩の支配だったのですが、藩内の騒動で移封となると、島中藩の支配に移ります。その後、岩本藩は帰封がかないますが、瀬田村の支配は島中藩のままとなります。瀬田助左衛門は瀬田村の庄屋を務めています。島中藩は助左衛門をねんごろに扱い、助左衛門も島中藩への帰属で不満はありません。しかし、瀬田村の支配を取り戻そうとする岩本藩は瀬田村に様々な圧力をかけてきます。こうした中、助左衛門の一歳の娘・お遊が連れ去られます。村人を総動員し、島中藩からも助っ人を借りて捜索しますが、お遊は見つかりません。残る場所は瀬田山ですが、瀬田山は村人も足を入れるのをためらう神秘的な山で、今まで何人も山奥に入って道に迷い命を落としています。
舞台の背景はこんなものです。そして、瀬田家に残った長男は京で修行し、嫁を連れて戻って来ます。二男の助次郎は江戸の油問屋に寄宿し、勉強と剣術に打ち込みます。そこで、縁があって、御三卿清水家に一年という期限での中間奉公をすることになります。ここで、清水家の用人として幕府から派遣された榎戸角之進と出会います。清水家の当主は斉道。将軍家斉の十七子で、四歳の時に清水家の養子に入っています。この斉道は癇癪を起こしやすく、そうした斉道の行状を見るにつけ、助次郎は中間奉公は無理だと思い、早い時期にお務めを退くことを考えるほどです。時に家臣を斬りつけるという事件が起き、この事件に深く関わった助次郎は、辞めさせられるものだとばかり思いましたが、用人の榎戸が清水家に仕えないかといいます。百姓から侍にするというのです。悩んだ助次郎は、相談も兼ね瀬田村にいったん戻ることにします。
帰る途中で見かけない少年が助次郎を瀬田村まで馬で送ってくれます。少年は山深い瀬田山を越えて、瀬田村に到着します。こんなルートは誰も知りません。助次郎は日がたつに連れてこの少年がお遊ではないかと思い始めた。武士になる決心をし、江戸に戻る時になり、再び少年に会うと、はたして少年ではなく少女であることが判明します。年もお遊と同じである。助次郎の喜びは計り知れないもので、里に行ったら瀬田家を訪ねろと言い残します。江戸に戻ると、斉道の症状はひどくなっているようで、用人の榎戸のやつれています。そして、夜伽の番が助次郎に回ってきたとき、話しはこの妹・お遊のことになり、斉道はいたく興味を示します。
まあ、ここまでが物語の前半になります。この作品は、2010年に宇江佐真理作品としては初めて映画化されました。映画は時間の制約で、これ以降が映画化されています。この前半部分が理解出来ないとこの作品の素晴らしさは理解出来ないのですが、ただの斉道とお遊のラブストーリーとしてしか描かれていないので、原作の魅力の1/10ほどしか伝わらない作品になってしまっています。まあ、映画を観るなら先に原作を読む事をお勧めします。何しろ、舞台の背景が分かりにくいし、主要人物の榎戸角之進が途中で原作には無い切腹してしまうのですから話しになりません。
物語の後半は、切なくなります。お遊を親父様と呼ぶ男が姿を消したため、お遊は瀬田家に戻ります。帰ってきたのはいいですが、山育ちの娘であるお遊は、普通の娘のようなことは出来ません。巷では狼女とささやかれ、村での生活は次第に窮屈なものに感じられるようになっていきます。時に、瀬田山を知るお遊を先導して山に入る話が持ち上がります。瀬田山を通ることが出来れば隣村へ行くにも便利になるからです。島中藩を中心に山へ入りますが、お遊以外はやはり、山に幻惑されます。不思議な構造をもつ山ですが、やはり山には秘密があるようです。映画では、この部分はただ単に水の問題に置き換えられてしまっています。
物語の後半は、切なくなります。お遊を親父様と呼ぶ男が姿を消したため、お遊は瀬田家に戻ります。帰ってきたのはいいですが、山育ちの娘であるお遊は、普通の娘のようなことは出来ません。巷では狼女とささやかれ、村での生活は次第に窮屈なものに感じられるようになっていきます。時に、瀬田山を知るお遊を先導して山に入る話が持ち上がります。瀬田山を通ることが出来れば隣村へ行くにも便利になるからです。島中藩を中心に山へ入りますが、お遊以外はやはり、山に幻惑されます。不思議な構造をもつ山ですが、やはり山には秘密があるようです。映画では、この部分はただ単に水の問題に置き換えられてしまっています。
斉道は静養目的で、助次郎の話しに登場する瀬田村へ行くことになります。こうして運命的なお遊と斉道の出会いとなっていきます。一言いうなら映画より小説の方がファンタジーに満ちた出会いです。ここからはラブストーリーになりますから小説を読んでもらった方が良いでしょう。この出会いと別れは涙ものです。映画よりも泣けます。斉道との逢瀬でお遊は子供を身ごもります。男子です。本来なら宗家の嫡男としてそれ相応の身分が保障されますが、お遊は側室のなるのを拒みます。お遊の住む場所は瀬田山しか無いのです。お遊は息子を長男の養子として育ててもらい、自分は山の炭焼き小屋で生活します。
最後にまた榎戸角之進が登場し、瀬田家に挨拶の後長男の息子の助三郎に案内されて、お遊に会いに炭焼き小屋に向かいます。しかし、助三郎の顔を見たとき榎戸角之進は斉道と瓜二つなのに驚きます。ここでまた泣けます。最後にこんなシーンがあります。お遊との惜別の後、助三郎が瀬田村のはずれまで見送ります。
『別れる刹那、榎戸は助三郎の顔をじっと見た。助三郎が照れたように笑う。その顔が斉道と重なった。
「殿、榎戸、おいとまを致します。ごめん」』
「殿、榎戸、おいとまを致します。ごめん」』
このシーンにじんと来ます。この一言に、これまで語られてきた物語のすべてが、お遊、斉道、助次郎、瀬田村、瀬田山、雷桜といった言葉が一挙に脳裏を駆けめぐります。 この一言で初めて榎戸角之進は用人であることを辞めることができ、思い出とも訣別することが出来たのでしょう。言い換えると、この言葉を発することによって初めて斉道からの呪縛から解放されたのだろうと。こう考えると、どうしても切なくなってしまいます。このブログを書いていてもまた涙があふれて来ます。
さて、最初に相模国への大山石尊信仰の話が出てきます。様々な時代小説にも登場してくる「さんげさんげ、六こんざいしょう、おしめにはつだい、こんごうどうじ、大山大聖不動明王、石尊大権現、大天狗小天狗...」の言葉ですが、ここでは最後にも登場します。 意味は「さんげさんげ」は慚愧懺悔、「六こんざいしょう」は六根清浄、「おしめにはつだい」は大峰八大だそうで、身内に大病を患う患者や妻の安産を願う男が水は行って一心に祈る言葉です。最後に榎戸はまたその声を聞くことになります。
雷桜は瀬田山の千畳敷に咲くしたが銀杏、上は桜という奇妙な木です。この木はお遊がかどわかしにあった日に誕生したものです。数奇な運命を生きたお遊の生き様を象徴しているのです。お勧めの一冊です。
最後に、映画版の「雷桜」を貼付けておきます。くれぐれも、原作をお読みになってから鑑賞することをお勧めします。