にっぽん音吉漂流記 | geezenstacの森

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にっぽん音吉漂流記

著者 春名徹
発行 晶文社

 

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 この男は黒船の船上から幕末の日本を見た。1832年、14歳のとき遠州灘で遭難。アメリカの西海岸に漂着。ロンドン・マカオを経て米艦モリソン号に乗せられ浦賀沖に現れながら、ついに日本に帰らなかった。19世紀後半、東アジアに生きた一漂流者の生涯を発掘する気鋭の中国近代史学者の書き下ろし長編評伝。―その数奇な生涯を少ない資料から浮び上がらせることによって、幕末外交に新たな光を当てる。大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。---データベース---

 

 音吉は尾張の国、知多郡の小野浦の出身です。現在の愛知県美浜町です。「宝順丸」という運搬船で見習い船員をしている、14歳の少年でした。1832年秋、宝順丸は、鳥羽港を出て江戸に向かう途中で嵐に巻き込まれました。遭難です。なんと14ヶ月にも及ぶ漂流で、同じ漁船に乗っていた14人のうち、生き残ったのは3人だけ。1833年の終わり頃、ようやく漂着した土地は、北米大陸のカナダとの国境付近でした。そこはまだゴールドラッシュの始まる前で、インディアンやエスキモーが多く居住する地域です。生き残った3人は先住民族に捕まってしまうわけですが、たまたま寄港した英国人の船で買い取られます。ここには既に世界戦略の野望があります。彼らは、英国に初めて上陸した日本人となります。

 

 欧米諸国は既に中国というごちそうに食いついていて、次に日本を狙っていました。しかし、長期政権で弱体化していたとはいえ、日本は鎖国政策の中、専守防衛の国なので、戦争をしかけると『意外に強いのではないか』と思われていました。過去にはキリスト教徒を追放しています。そこで、各国はあの手この手で、日本とのコンタクトを図っていて、英国は、「漂流民外交」を画策していていたわけなのです。しかし、当時のイギリスは中国との通商に全力を注いでおり、入超を阿片の密貿易で解消しようとしていたために、イギリス政府としては日本まで手が回らない状況でした。

 

 ここにアメリカの付け込む隙がありました。新興国のアメリカは、キリスト教の布教と開国を迫る意図で、イギリスから音吉ら3人と別の漂流者たる九州組の4人でした。こうして、アメリカの商船「モリソン号」に乗せられた7人は琉球経由で江戸湾は浦賀沖まで入り込みます。時は1837年(天保8年)、まだペリーの黒船来航よりも、16年も前のことでした。この時の幕府の政策は「異国船打払令」に基づき砲撃を行い、モリソン号を追い返してしまいます。浦賀で砲撃を受け、船は南下して鹿児島湾へ入ります。ここで漂流民の素性を明らかにしますが、薩摩藩からも攻撃を受けます。この状況をこの本に書かれたままに解釈をすると、幕府は日本人漂流者がいることを知りつつ追い返していたということになります。要は民間船への無差別攻撃です。この事件は日本国内でも問題となり、1842年(天保13年)に「異国船打払令」は廃止されます。それは時代の趨勢にも基づいたものですが、音吉たちの来訪が早すぎたという不運も影響しています。

 

 祖国の冷たい仕打ちに落胆した7人は、さらにつらい思いをします。外交カードになれなかったせいで、単なる民間人として現地で自立して生きることになります。ここでは音吉以外の消息も分かる限りのことが書かれていますが、音吉は才覚があったのか英国系の会社に勤め、シンガポールでマレー系の妻と結婚し、3人の子を得ます。上海、香港、シンガポールと3拠点に居を構え、かなり裕福な生活をしていたようです。そして、アヘン戦争、その後の太平天国の乱の激動をくぐり抜け、更には日本史の重大エポックである米国太平洋艦隊のペリー提督の黒船に大きくかかわっています。

 

 さて、江戸時代の漂流民で一番有名なのは「ジョン万次郎」でしょう。多分高校までの日本史で登場するのは彼ぐらいのものです。しかし、彼以外も幕末の日本の周辺で懸命に生きていた者たちがいます。この音吉は、帰国こそしませんでしたがジョン万次郎、ジョゼフ・ヒコこと浜田彦蔵とならんで評価されてもいい人物ではないでしょうか。三人は、日本の歴史の中で、もっとも激動のはげしい時期のわずかな時間軸のズレと、運命のいたずらで三者三様の人生を送っています。時系列で並べれば、http://ja.wikipedia.org/wiki/音吉音吉(1819-1867・1832に遭難)http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン万次郎。そして、http://ja.wikipedia.org/wiki/浜田彦蔵。ほぼ10年の差です。しかし、この10年が命運を分けています。先にも書いたように1842年には「異国船打払令」は廃止されているのですから。

 

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 音吉たちは、自分たちは日本へは帰れないと諦め、しかし、後から漂流者となって上海に辿り着いた者たちをかいがいしく世話しています。この本を読んでいると次から次へと漂流者が現れます。当時の航海の技術では難破が非常に多かったことを物語っています。先の彦蔵の仲間も1853年には音吉の世話になっています。後に音吉はベリー率いるアメリカ艦隊が上海から出向する際、日本人流民を立てに開港を迫ろうとしていることを聞きつけ、彼らを逃走させるのに尽力もしています。ただし、彼らのうちの一人、仙太郎だけは介抱出来ませんでした。この仙太郎は、ペリーとともに浦賀に行っています。しかし、彼も日本への帰国は承知していません。そんな中、音吉は1949年イギリスの軍艦マリナー号で再び浦賀へ赴きます。この時の音吉は、通訳として乗り込んでいました。しかし、中国人を装い自らは林阿多(アトウ)と名乗っていました。記録ではこの人物は、ジョン・マシュー・オトソンと記されており、まぎれもなく音吉だということが分かります。その時の彼の風貌が上の絵として残されています。

 1953年は黒船の出現ですが時の将軍は病のため亡くなり翌年の訪日で「日米和親条約」が締結されます。開国です。その年の9月にイギリス艦隊が長崎に現れます。実はこの時のイギリス艦は通称目的ではなく軍事目的でした。当時イギリスはロシアと「クリミア戦争」の最中で、日本の港にロシアの船を入港させないというのが目的だったのですが、通詞たちの英語からオランダ語、日本語への翻訳の過程で趣旨が違えられ、結果的に「日英和親条約」の締結となってしまうのでした。しかも、この通訳の仕事をしていたのはまたしても音吉だったのです。この時の、交渉の過程で音吉の存在は長崎奉行の知るところとなります。このとき帰国の意思を訪ねられていますが、音吉は妻子が上海にいることを理由に拒絶しています。

 

 その後、幕末には江戸幕府の送った遣欧使節団の一部の人と香港で面会しています。その中には福沢諭吉もいましたが、福沢は、音吉の存在をまったく無視しています。こういうところを見ると、どうも、水夫出身者に対する侮蔑感情があった様な気がします。「天は人の上に人を作らず」とは彼の言葉ですが、口先だけの言葉だった様な気がしてなりません。このことは、先日読んだ「アラミスと呼ばれた女」の榎本武揚に対する態度にも表れていたようにも思います。

 後年、音吉は「太平天国の乱」で政情不安な上海を離れ、妻の故郷であるシンガポールに移り、ミスター・オットサムとして余生を送ります。彼よりも少し若いジョン万次郎は、早々と日本に戻り、幕末の日本外交を支え、東京大学教授として人生を終えていますし、アメリカナイズされた彦蔵は、米国籍を取得し、民間人としては3人の米国大統領と面会し、幕末の日米外交を米国側代表として活躍しています。そして、晩年は日本に暮らし、米国人Hecoとして青山墓地に眠っています。その中、音吉は52歳でひっそりと生涯を閉じています。本著では、最後に、音吉の息子のジョン・W・オトソンが登場し、父の遺言として、自身の日本への帰化を申請したという1879年の新聞記事の紹介で終わっています。

 WIKIの記事ではこの帰化申請は受理され、山本音吉として暮らしたそうです。さて、この「音吉」に関しては三浦綾子さんが「海嶺」という作品で描いていますし、また2012年には柳蒼二郎著の『海商』という作品を書いています。また、近年の情報では2004年に音吉の遺骨がシンガポールで発見され、分骨された遺骨が山本家の墓所におさめられたことをが掲載されていました。今はその記録が下記で確認出来ます。
 
http://www.jas.org.sg/magazine/yomimono/jinbutsu/otokichi/ikotsu/otokichiikotsu.htm

 

 さて、音吉の故郷、愛知県知多郡美浜町には音吉、岩吉、久吉ら3人の和訳聖書発祥の碑が立てられています。また、2021年5月に「廻船と音吉記念館」がオープンしています。

 

廻船と音吉記念館 
470-3236  
住所 愛知県知多郡美浜町小野浦字福島62
開館日 4月〜10月の第 3土日
※それ以外の日は、要予約(1週間前までに)
開館時間 10時〜12時、13時〜15時
連絡先 09056358946 館長 樋口浩久