
東京の街を歩いてみると、身近な場所に江戸の名残を発見できる。千住、浅草、深川、日本橋、神田、本郷、品川……。「記憶の風景」をもとめ、江戸学者・田中優子と写真家・石山貴美子が、歩く! 見る! 感じる! 四季に彩られた水の流れ、祭りの風景、人々の日常のたたずまいの中からは、江戸の賑わいが聴こえてくる。そして、近代におしつぶされてきた江戸のうめき声さえもが。江戸をめぐる鎮魂と癒しの旅へ。---データベース---
今は東京と呼ばれる地域を江戸時代の視点で歩いてみるという指向の本です。それを現代の写真家石山貴美子さんがビジュアルに現代の風景の中に収めています。最初は面影の残っていない千住小塚原回向院という刑場からスタートし、最後はまだ面影をとどめている鈴ヶ森の刑場で締めくくっています。歩くというからには地図が必携ですが、ここでは江戸時代の古地図はいっさい出て来ません。やや不親切なのは、対比する現代の地図も、巻末に添え物的に付けられているだけで、読み終わって初めて地図が付いていたんだと気がつく程度です。この地図についての説明がいっさい無いし、これから旅するのだから巻頭にある方が親切だろうというものです。東京に住んでいる人ならまだしも、地方に住んでいる者にとっては不案内な地理を文章だけで追うのは無理という者です。実際、田中さんの文章はかなり離れている場所をひとくくりにして説明しているので、そういう点では初心者向きの本ではない様な作りになっています。それでも、江戸時代の研究家としてのきっちりとした視点で捉えられている文章は、中々蘊蓄があって読み応えがあります。ビジュアルブックと銘打っているだけあって、構成は第一景から第八景に分けてそれぞれのテーマで語られています。
「第一景 鎮魂の旅へ」
今では、千住小塚原回向院はJRと貨物線と地下鉄の3種類の線路で分断されています。もともとは死刑が執行された場所であり、小塚原回向院は遺体を埋葬した場所です。明治は時の権力者たちからは江戸を否定することから始まっています。そして、近代は「御霊信仰」を捨てることでもありました。政争で敗れた者たちの魂を鎮魂し、反秩序的エネルギーを制御し、反政府勢力を慰撫するものは今では壊されてしまっています。著者は政敵を無視し、味方の英霊だけ祭り上げる施設だけを尊重する明治以降の社会に疑問を投げかけます。日本の伝統を切り捨ててしまった象徴として千住小塚原回向院から出発したのでしょう。何しろ、この地には吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎、磯辺浅一も葬られたのですから。そして、この地はもう一つ吉原と因縁のある浄閑寺があります。性と死が交わる地でもありました。この寺には2万5千人ほどの遊女が葬られているそうです。最後に語られる遊女の考察が中々考えさせられます。女性ならではの視点です。
今では、千住小塚原回向院はJRと貨物線と地下鉄の3種類の線路で分断されています。もともとは死刑が執行された場所であり、小塚原回向院は遺体を埋葬した場所です。明治は時の権力者たちからは江戸を否定することから始まっています。そして、近代は「御霊信仰」を捨てることでもありました。政争で敗れた者たちの魂を鎮魂し、反秩序的エネルギーを制御し、反政府勢力を慰撫するものは今では壊されてしまっています。著者は政敵を無視し、味方の英霊だけ祭り上げる施設だけを尊重する明治以降の社会に疑問を投げかけます。日本の伝統を切り捨ててしまった象徴として千住小塚原回向院から出発したのでしょう。何しろ、この地には吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎、磯辺浅一も葬られたのですから。そして、この地はもう一つ吉原と因縁のある浄閑寺があります。性と死が交わる地でもありました。この寺には2万5千人ほどの遊女が葬られているそうです。最後に語られる遊女の考察が中々考えさせられます。女性ならではの視点です。
「第二景 賑わいの今昔」
一景からの続きでその吉原が登場します。現在の吉原には江戸の面影はほとんどありませんがが、交番のある位置に自身番にあたる吉原会所があったというのは面白いエピソードです。吉原から南へ下って浅草寺にたどり着く一帯は歴史的にも興味ある人々が住み着いていました。朝鮮半島からの渡来人たちで浅草神社は三人と渡来人を祭っているそうです。この浅草こそが、江戸の濫觴の地だという事も読んでいた納得ができます。浅草寺の北に位置する待乳山の聖天はゾロアスター教由来というのも興味深い話しです。
一景からの続きでその吉原が登場します。現在の吉原には江戸の面影はほとんどありませんがが、交番のある位置に自身番にあたる吉原会所があったというのは面白いエピソードです。吉原から南へ下って浅草寺にたどり着く一帯は歴史的にも興味ある人々が住み着いていました。朝鮮半島からの渡来人たちで浅草神社は三人と渡来人を祭っているそうです。この浅草こそが、江戸の濫觴の地だという事も読んでいた納得ができます。浅草寺の北に位置する待乳山の聖天はゾロアスター教由来というのも興味深い話しです。

「第三景 隅田川の流れに」
ここに登場する江戸東京博物館と深川江戸資料館は一度は訪問してみたいところです。子供が修学旅行での宿がこの付近だったので、ここを見学するように勧めのですが、残念ながら改装中で開いていなかったのが残念です。ここでは柳橋、両国橋、深川、向島と語られますがかなり広範囲です。東京には庭園がかなり残っていますが、それは彼の地が大名屋敷であった名残だそうです。清澄庭園もその一つで、もとは久世大和守の下屋敷後だそうです。
ここに登場する江戸東京博物館と深川江戸資料館は一度は訪問してみたいところです。子供が修学旅行での宿がこの付近だったので、ここを見学するように勧めのですが、残念ながら改装中で開いていなかったのが残念です。ここでは柳橋、両国橋、深川、向島と語られますがかなり広範囲です。東京には庭園がかなり残っていますが、それは彼の地が大名屋敷であった名残だそうです。清澄庭園もその一つで、もとは久世大和守の下屋敷後だそうです。
さて、深川には辰巳芸者がいました。宇江佐真理真理さんの「髪結い伊三次の捕り物余話」に登場するお文もこの辰巳芸者でしたね。深川は江戸の中心から吉原より近かったし、深川の遊女は出張が可能だったのでたいそう繁盛したようです。
第四景は「華のお江戸をもとめて」ということで、日本橋界隈、第五景は「川と大地と庭園の地」ということで湯島、神田本郷界隈が取り上げられています。まあ、この辺のところは他の本でも頻繁に取り上げられていますから省略です。「第六景 風水都市江戸の名残」
江戸城を中心に見ると、上野の寛永寺・浅草寺が東北にあり、その反対側に増上寺があります。鬼門である東北とその反対側に将軍家ゆかりの寺を配し、江戸と江戸城を守っているのです。増上寺は若干南にズレているので、外堀沿いに山王社が建てられています。これに対応する形で神田明神があり、神田明神は江戸の総鎮守といわれています。また、北斗の方向に日光東照宮があり、江戸は二重三重の呪術的なセキュリティで守られている構造になっています。これは江度という年が風水によって建設された事を意味しています。その風水の考えでは、北(玄武)に山、南(朱雀)に水、西(白虎)に道、東(青龍)に川がなくてはならなりません。江戸から見ると西に富士山を置いているので、そこを北と見立て、江戸城の東側にある門を大手門として、城の正面玄関としたのだ。そのため、南の門があえて虎ノ御門と名付けられているだそうです。
「風水で守られた平安京と同じ構造に仕立て上げ」られた江戸は、その中心である江戸城は東に大手門(正面の入口)を置き、南の門をあえて虎の門と名づけることで、富士山のある西をあえて北として読み取れるようにしています(平安京は中国の都に倣って帝は南面するので南が正面。大手門を東に置くのも、白虎で表現される西をあえて南の門を虎の門と名づけることで、方角をずらしています)。そして、本当の北の位置には日光東照宮をおいて風水を完成させているんですね。見事な設計というしかありません。
江戸城を中心に見ると、上野の寛永寺・浅草寺が東北にあり、その反対側に増上寺があります。鬼門である東北とその反対側に将軍家ゆかりの寺を配し、江戸と江戸城を守っているのです。増上寺は若干南にズレているので、外堀沿いに山王社が建てられています。これに対応する形で神田明神があり、神田明神は江戸の総鎮守といわれています。また、北斗の方向に日光東照宮があり、江戸は二重三重の呪術的なセキュリティで守られている構造になっています。これは江度という年が風水によって建設された事を意味しています。その風水の考えでは、北(玄武)に山、南(朱雀)に水、西(白虎)に道、東(青龍)に川がなくてはならなりません。江戸から見ると西に富士山を置いているので、そこを北と見立て、江戸城の東側にある門を大手門として、城の正面玄関としたのだ。そのため、南の門があえて虎ノ御門と名付けられているだそうです。
「風水で守られた平安京と同じ構造に仕立て上げ」られた江戸は、その中心である江戸城は東に大手門(正面の入口)を置き、南の門をあえて虎の門と名づけることで、富士山のある西をあえて北として読み取れるようにしています(平安京は中国の都に倣って帝は南面するので南が正面。大手門を東に置くのも、白虎で表現される西をあえて南の門を虎の門と名づけることで、方角をずらしています)。そして、本当の北の位置には日光東照宮をおいて風水を完成させているんですね。見事な設計というしかありません。

「第七景 面影橋から牛込へ」
ここで芭蕉が登場します。芭蕉は俳人としてつとに有名ですが、29歳で江戸に出て最初に付いた仕事は神田浄水の請負人としての仕事でした。芭蕉は町名主の秘書の様な仕事をしていたんですね。いゃあ、知りませんでした。関口芭蕉庵にはそんなサラリーマン時代の歴史が刻まれた建物なんだそうです。
ここで芭蕉が登場します。芭蕉は俳人としてつとに有名ですが、29歳で江戸に出て最初に付いた仕事は神田浄水の請負人としての仕事でした。芭蕉は町名主の秘書の様な仕事をしていたんですね。いゃあ、知りませんでした。関口芭蕉庵にはそんなサラリーマン時代の歴史が刻まれた建物なんだそうです。
「第八景 郊外をめぐる」
江戸の範囲江戸には墨引きと朱引きの二通りの境があります。そのうち、朱引きが江戸の範囲と一般にはいわれています。すると、東は荒川流域の四ッ木や平井、北は板橋、千住、西は落合、代々木、南は品川あたりまでとなる。意外に広範囲なんですね。その南の果ての品川は、宿場町でもあり岡場所でもありました。そして、その先には鈴ヶ森の処刑場がありました。江戸は東西の入り口に天国と地獄を設置した安住の地として風水学的に理想の都市を目指していたのですね。そして、この本は写真でその端々で江戸との接点を鋭く映し出しています。読んで充実感のある本です。
江戸の範囲江戸には墨引きと朱引きの二通りの境があります。そのうち、朱引きが江戸の範囲と一般にはいわれています。すると、東は荒川流域の四ッ木や平井、北は板橋、千住、西は落合、代々木、南は品川あたりまでとなる。意外に広範囲なんですね。その南の果ての品川は、宿場町でもあり岡場所でもありました。そして、その先には鈴ヶ森の処刑場がありました。江戸は東西の入り口に天国と地獄を設置した安住の地として風水学的に理想の都市を目指していたのですね。そして、この本は写真でその端々で江戸との接点を鋭く映し出しています。読んで充実感のある本です。
