
光の球が江戸の空を飛ぶとき、人々の心は、なぜかざわめく。「虚ろ舟」と呼ばれる光の球が轟音を立てて頭上を通り過ぎるのを、銀次は見た。見た人を不幸にする、いや、幸運が舞い込む、とさまざまな噂が江戸の町を駆け抜けていくが、銀次の周囲には、次々と奇っ怪な事件が起こる。ともすれば折れそうになる気持を奮い立たせ、銀次は事件を追うが―。死体を見ると涙が止まらない、風変わりな岡っ引き・銀次、五十路を前に、新たな試練。---データベース---
「泣きの銀次」シリーズ第3弾です。死体を見ると泣き出してしまう名物岡っ引き・銀次もそろそろ五十路。練れた人柄で同業者間では一目置かれ、風変わりな癖を笑う者は少なくなっています。老舗小間物屋・坂本屋の主として長女のおいちを嫁がせてホッと一息ついたのですが、次女のお次の先行きには頭を悩ませます。想い人の天野和平は津軽藩のお抱え絵師ですが、壊疽で左足を膝下から切断しており杖が手放せません。思い悩む銀次ですが、おいちの祝言の翌朝に、江戸の空を飛ぶ虚ろ舟を目撃します。虚ろ舟は現代の言葉でいえばUFOです。そう、江戸時代にもUFOは出没していたのです。時代小説でUFOの事を取り上げたものは、そうそうありません。異色作家の渋沢龍彦のものがあるくらいです。ただし、ここでは虚ろ舟はメインんで扱われるわけではなく、何時ものように作品のイメージとしての存在でしかありません。
ここで扱われる虚ろ舟は、銀次の前に度々姿を見せますが、それはある種の暗示の様な存在で、次女のお次と和平の関係を現しているものとして描かれています。宇江佐真理といえば、おちゃっぴいに代表される明るい町娘が主人公の作品が思い浮かびますが、最近の作品はアンハッピーな終わり方をするものが多くなって来ています。現代の世相を上手く取り込んでいくとそういう作品が多くなるのかなぁ、という感じがします。
この虚ろ舟にはれっきとした資料的裏付けがあります。虚舟(うつろぶね)とは茨城県大洗町(北茨城市とも語られる)沖の太平洋に突如現れたとされる、江戸時代における伝説の舟です。南総里見八犬伝」で有名な戯作者、曲亭馬琴の兎園小説「虚(うつろ)舟の蛮女」に描かれています。その虚舟は海から流れて漂着し、それに乗っていた異国の女性について書かれたものです。そう、UFOのようなものは、実は漂着した異国の舟だったんですね。その虚舟は空飛ぶ円盤の江戸時代的表現ではないかとされているし、別の文献では空舟という表現がされているものも存在します。虚舟は鉄でできており、窓があり(ガラスが張られている?)丸っこい形をしているといのもUFOを連想させます。特徴的なのは女性が玉手箱の様な箱を持っていることです。こう考えると、浦島太郎伝説は宇宙人と遭遇した物語と考えてもおかしくありません。相対性理論によって未来の地球に戻って来たのが浦島太郎だとすれば合点がいきます。

話しが横にそれましたが、泣きの銀次シリーズは骨子となる話しが全編を貫いています。ここではお次と和平のストーリーになります。和平は前作「晩鐘」で登場している津軽藩のお抱え絵師です。ただ、ここでの設定は体を不自由に設定しています。それが原因でお次と一緒になるのをためらっているのですが、ここがこのストーリーの肝でありながら歯がゆいところです。メインストーリーに絡んで、3つのエピソードが語られます。幼い子供の溺死事件は後妻による児童虐待なの?幼子が保護者に殺されるというのは暗いお話です。この最初の話しは、実は前作とよく似たパターンの話しです。銀次はその事に気がついて、寸でのところで事の真相を暴いていきます。岡っ引きとしての面目躍如といったところです。
そして次は、虚ろ舟に絡んだ話しです。空飛ぶ舟の目撃談で売り上げを伸ばす読売り(つまりは瓦版)の「はやり屋」で起こる首くくり事件です。ここで働く連中はみな親に勘当させられた者や、死に別れて身寄りのない者です。そんな彼らに、銀次は骨を折ろうとします。しかし、段取りを付ける間に源兵衛という若者が首を括って死にます。本当に自殺したのか?真相を探るうちに、銀次は殺しではないかと疑うようになります。最初は「はやり屋」のまとめ役の忠吉が疑われ、番屋に引っ張られます。しかし、取り調べをするうちに、京助の言動が気にかかります。釜を掛けると京助は墓穴を掘ります。銀次の機転が事件の解決をもたらします。銀次の仏心が、改心して心機一転、稼業に励もうとする京助の足元に陥穽があります。人の心は弱くて、なかなか染み付いた安易な生き方を抜け出せないのでした。この事件、同僚を落とし入れようとするもので、救いがなくて後味が悪いものです。
ここまでは、快調に銀次は事件を解決に導き、旦那の勘兵衛を助けます。しかし、肝心の自分の娘が関わる事件ではどうもこの感が働かなくなってしまいます。庶民の暮らしを守ろうと誠実に努力する銀次ですができることには限りがあります。五十路を超えた銀次はやはり年でしょうか。煮え切らない和平の態度に、銀次は坂本屋への出入りを禁止します。ここから、和平の転落が始まります。津軽藩のお殿様に命じられた釈迦涅槃図の作成をしくじった和平は藩屋敷から失踪してしまいます。お次と会うことが出来なくなった和平は、絵師として堕落し幽霊絵などを手がけるようになります。時を同じくして、市中では杖をついた按摩姿の男のストーカー事件が勃発します。浅草の浅草寺に近い蛇骨長屋にこもって描いた絵は、女が内に秘めた醜さをさらけ出すような不気味なものばかりです。
時々、宇江佐作品では、こういう唐突な展開があります。銀次も、ここでは和平のこの変わり身に真実を見抜けなくなっています。お次の親ということで、客観的な判断が出来なかったのでしょうか。ついに和平を死に追いやってしまいます。お次もお次です。本当に和平と一緒になりたかったら、駆け落ちでもすれば良いのにと思ってしまいますが、肝心なところでは口をつぐんでしまいます。そんなことで、和平は自殺し、お次は出家すると言い出します。ストーリー的には、銀次のお内儀となった「お芳」も一時は尼になると寺にこもったことがあります。そのお芳が世話になった尼寺に今度は娘のお次が尼として入ることになります。第1作から読んでいると物語としては小宇宙の中で完結した形になりますが、旦那の勘兵衛が脳溢血で倒れたり、兄弟以上の仲の卯之助が息を引き取ったりと大団円は暗い話しばかりです。まあ、確かにご都合主義のハッピーエンドは飽きられますが、ひねりすぎたアンハッピーエンドは読後感がイマイチといったところです。こういったシリーズ物で成功しているのは、今のところ「髪結い伊三次」シリーズだけでしょうかね。